例えば表彰される人っていうのは、何かを「やった」人に限られる。でも「やらなかったこと」に対する表彰だって当然あっても良いと思う。ところが人というのは自分が何もしていないことにコンプレックスを持ったり、時には自己嫌悪に陥ったり。自分は何も出来ない・・・と落ち込みます。演出しながら役者の人を見ていると、こういう方向で落ち込む人の多さに驚く。出来ないことは「やらない」というデザインに変えて、その「やらなさ」加減を表彰するような、そんな演技で良いんじゃないの? と僕はいつも思うのですが、まぁ、なかなか伝わらない上に、この考え方を他の劇団まで引きずって行くとどうやら痛い目に遭うようです。出来ないことを歓迎するというのは、確かにある意味特殊かもしれません。
でも「やる」や「出来る」をプラス、「やらない」「出来ない」をマイナスとして疑わないのは、それはそれでどうかと思う。出来る人、やれる人が素晴らしいとは限りません。
なんて事を考えているのは、先日脚本を書いていたら登場人物の一人が
「本当に優秀な人というのはな、人を殺せる人のことだ」
と喋りまして、とは言っても自分で書いているのですが、なるほど・・・と思わず思ってしまい、でも「そうかぁ?」という気持ちもどこかにありまして、考えていたら、何かを「やった」人だけを表彰するという考え方そのものがちょっともうおかしいよね? と相成りました。
演劇は映画はフィクションの世界、別の言い方をすれば「嘘」ということになるのですが、僕は「嘘」というよりかは「装置」や「機械」の方がしっくり来る。普段言えないような気持ち、考え、真実、劣等感を「装置」を通すことで表現できる、そんな「機械」だと思ってます。
装置である以上、機械である以上、データの処理を間違えると、とんでもないものが飛び出して来ます。そこで「中立」というのが大事になってくる。常に中立を意識して物事を考えるべきだと僕は思う。中立的になったからといって、何も表面がつるんとして、無味なものになる訳でもないし。
役者は「役」という「嘘」を通じて「真実」を伝える「舞台」という装置の上で、自分に「嘘」をつくことが許されないのかもしれません。
だったら「出来ない」ことは「出来ない」で正解だと、やっぱり僕は思ったりするのでした。
さようなら