マニの個人的事典

マニの個人的事典

気軽に読める小さな物語

日々、つれづれなるままに書いていきます。

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 炎天下ですくすくと大きくなったころ、いきなり冷やされたかとおもうと、人でごった返す浜辺に置かれ、右だ左だ前だ後ろだと声が響いたかとおもうと割られてしまい、塩をかけられて食べられてしまう。種は口にふくまれたかと思うと遠くに飛ばされる。皮は目や口の形に開けられ、ときにはカブトムシのエサにもなる。私は夏は大忙しなのだ。

 木の上に、うっすらと紫がかった茶色い、まるでタマゴを引きのばしたようなものが見える。小学生にとってそれがなっている高さは、一瞬で「ムリ!」と思わせる。が、あきらめなかった小学生は、これまでの数年間の人生経験を総動員して、いかにそのおいしいアケビを採るのかに集中する。場合によっては1時間位アケビと格闘することになるけれど、いざとって食べると、甘いんだけど種が多くて食べづらい。アケビを採ることにすべてのエネルギーを使い果たした小学生にとって、実際に食べることはただの確認行為にすぎない。

京都の日本海側のキレイな海岸の近くで生れたものとして、ハマグリは、足の指をぐいぐいと海中の砂をかき分けながら見つけるものだった。ハマグリをお金を出して買うものだと気がついたのは、東京で暮らしはじめたことだろうか。


 のふたみに別れ行く秋ぞ


芭蕉の句である。そのころの子ども達もやはり足でぐりぐりと海中の砂をかき分けてハマグリを探したのだろうか?

子供のころ、山にフキを採るおばあさんについていったことが何度かある。おばあさんは、夏の限定のアルバイトのように、フキを採ってきて近所の行商のおばさんに売っていた。おばさんは京都市内に売りに行くのである。おばあさんのフキは人気で、いくら多くても買い取ってくれた。たぶんひと夏で数十万円ぐらいにはなっていたのではないだろうか?いま考えても山奥のキレイな水や空気ですくすくと育った立派なフキだった。旅館でもおばあさんのフキは使われたことだろう。フキを食べると、そんな何気ないことを思い出す。
そうじの本を書いてみようかな?禅寺の掃きそうじから宇宙空間の人工衛星のなどのゴミのそうじ。精神的なそうじから人間関係のそうじなどを網羅する。たとえば何万年前に人類が食べた貝殻が集められているのもそうじのようなものか?そう考えるとそうじは人間にとって基本的なものだろう。(