荻上チキさんインタビュー「情報化社会と規制」 | マンガ論争勃発のサイト

荻上チキさんインタビュー「情報化社会と規制」

 児童ポルノ法改正がどうなるのか全く予断を許さない今日この頃ではあるのだが、それと同時に進行しているのがネット規制。違法ファイル・ダウンロードの禁止? 青少年有害情報の禁止? フィルタリング? はたまた最近新聞紙面をにぎわす「学校裏サイト」? 今回は、と言ってもインタビュー自体は一月近く前になるのだが、『ウェブ炎上――ネット群集の暴走と可能性』(ちくま新書)の著者であり、『αシノドス』(メールマガジン)の編集長である荻上チキさんのお話を聞いてきた。

新しい枠組みが生まれようとしているのか?

--直近の問題としてネット規制についてお聞きしようと思うのですが。

荻上さん:状況論については多くの方が既に指摘しており、また刻々と変わり続けているため、少し概念的なところについて話をしましょう。現在では、実に多くの<規制>に関する議論が同時進行的に進められています。そしてそれらの議論は今、ウェブ社会であるがゆえの問題を多く抱えています。例えば<児童ポルノの単純所持>と<準児童ポルノ>がセットで話題になったことが象徴しているように、<ウェブ時代の欲望監視>がひとつのキーポイントになっています。

 <準児童ポルノ>といった想定は、その行為が実際に誰かの<人権>を傷つけていることが問題にされるのではなく、ほとんど証明不可能な間接効果――少なくともメディア論者が疑問を抱くような――に対する<懸念>、それ自体が問題であるかのように語られています。一般に<リスク>自体を忌避する流れの中で、それらを事前に出来る限り管理したいといった欲望が<なんとなく>高まっていますが、その欲望は終わることがありません。その欲望が際限なく実現され、一方で実現されることなき欲望さえも<懸念>の対象になっていくというのは、実にアンバランスですよね。
 
 今話題になっているフィルタリングに関する議論は、一見すると<子どもをいかに有害情報から守るか>という議論になっていますし、概ねの人はその文脈で賛同しています。しかし、<学校裏サイト>が頻繁に話題になっていることからも分かるとおり、そこでは<コミュニケーション>と<教育>との関係が問われているため、これまでの<表現規制>の話とは違ったロジックで考えなくてはならなくなっている。つまり、< 既に発せられたコンテンツ>をレイティングしたり、ある種の表現を禁止するといった話ではなく、子どもにネットで表現・閲覧を許すこと自体が<有害>、といった発想です。

 2007年には、フィルタリングの議論を盛り上げる支えにもなったような、象徴的な事件が二つ起こりましたね。一つは滝川高校のいじめ自殺事件、もう一つがモバゲータウンで出会った者同士による殺人事件。これらはいずれも、ウェブ社会が生んだ<負の側面>として、多くの報道で繰り返し取り上げられてきました。ウェブ上でこれまで遭遇しなかったようなコミュニケーションが、人と人とを繋げることによって子どもを被害者にしやすくなった、あるいは子どもという新しい加害者を生んでいくという<リスク>に対する不安を抱かせたわけです。

 もちろんこの二つは、ネットが登場する前から起こりうる事件ではあったし、そもそもネットが犯罪リスクを高めているか否かについては懐疑的である必要がある。滝川高校のいじめ事件でも、ネットを利用したもの以外にも元々かなりハードないじめがありましたし、多くの学生はそのことをオフライン上で見聞きしていた。つまり、ネットいじめはレパートリーの一つで、それだけを特権視する報道は偏ってしまう。あるいはモバゲータウンが無ければ見知らぬ人同士が出会わず、殺人にならなかったかと言えば、そうではない。その事件でも、出会いのきっかけがモバゲーであったけれど、その後の数回の出会いを重ねて、生きづらさを書き綴った者同士が心中を測ったものという報道もある。1000万人もの人が参加しているコミュニティですから、オフライン同様にある程度のトラブルが発生するのは間違いないはずですし、さらにはネットが犯罪の総数を増やしているかという検証も必要となる。

<有害>という言葉の反対語は<無害>ですが、<有害>と<無害>とが、緩やかなグラデーションで繋がっているかのような、そんな言説が多く見られますね。しかし、コミュニケーションは常に文脈的なものであり、<無害>を保障できるものは存在しない。だからこそその領域を<リスク>と呼んでいるのだと思いますが、とはいえわたし達は<リスク>が本当に高まっているかどうかという検証が行わなくてはならないし、過剰に<リスク>が特定の対象にたいしてばかり問われるといった事実にも分析が求められている。

 例えば、よく<子どもがいつでもみられる状態>にあること自体が問題視されますが、その情報がアクセスされる<蓋然性>については問われず、あたかも< 可能性>への<懸念>、すなわち<リスク>が生じることがまずいかのように、削除要請やフィルタリングの原則導入の話が進みます。多くの大人がプロフサイトやモバゲーを実際には見ていないのと同様に、人は「半径ワンクリック」の範囲でだいたいのブラウジングを済ませるため、子どもがそれらのサイトに実際にアクセスするかどうかは別なのですが、にもかかわらず「世界中に見られる可能性」というのを文字通りに受け取ってしまってます。あるいは、ある種の極端なケースが、全体の<蓋然性>を高めるかのように。

 このような形で、ある種の決断がスタンダードとして定着していくことには多くの問題が含まれている。だから、理念的に<欲望>を擁護する形をとりつつ、プラグマティックには、現実に解決されるべき<議題>を提示しなくてはならない。基本的にはこのように考えています。それは、ネット規制だけでなく、児童ポルノについても基本的には同じ構えです。

 ところでこういった問題で難しいのは、一般に、ネット以前からもあったことを、あたかもネットのせいであるとして叩くような言説には注意する必要がある一方で、変化に視点をあてることも重要だということ。それを同時に、慎重に、しかし性急にやる必要があるんですよね。変化について言えば、例えば大人の視点を介すことによって、子供のコミュニケーションとか教育課程っていうものの発展を見守りつつ特定の方向に啓蒙していこうという、ある種の<市民>概念に裏付けられた<教育観>が、現在では部分的に失効した点もあるでしょうから。

--これまでになかったコミュニケーションがあらわれた?

荻上さん:違う回路が現れた、ということですね。具体的には、子供達がダイレクトに社会的な場でコミュニケーションを行い易くなり、そのコミュニケーションが< 身近な大人>のファイアーウォールをすり抜けて、直接ログが外部にこぼれ出てしまうと、それに対する社会的価値付けが生じてしまう。場合によっては、具体的な子ども同士の戯れではないようなレベルでの差別とかにも繋がってしまうわけです。他にもインターネットの登場、情報社会化ってことによって、いわゆる<近代>という社会モデルが前提としていた幾つかの社会システム、パッケージってものが部分的に通用しなくなるケースはありうるでしょう。


--これまでの枠組みが崩れてきたということですね。

荻上さん:部分的に、ですね。よく<近代化>って言われますが、私たちは<近代ではない社会観察モデル>から<近代という社会観察モデル>に至って、何世紀か経っている、ということになっている。<近代>では、例えば子どもというのは<未成熟な市民>であるがゆえに、彼らの周りから有害な情報を排除して<保護>しつつ、失敗可能な空間でしばらく教育することで<成熟>させていこうという考えがベースとして共有されています。しかし、現在のようにコミュニケーションが網状化していくと、場による管理というものが困難にぶつかることにもなるわけですね。

--年齢などの人工的な線引きが困難になってきていますね。

荻上さん:困難でありつつ、恣意的に徹底することも可能であるわけです。以前より、ここからここまでは未成年立ち入り禁止であるといったゾーニングは行われていた。大人でない者に対しては地域の目、あるいは学校共同体の監視の目の届く範囲でコミュケーションをといったファイアーウォールを働かせながら。そういったルールは恣意的であることは間違いないんですけれども、年齢をめぐるルールはその国で定められていて、その国の<大人>観が、社会システムのセットから総合的に考えて<このくらいの年齢だろう>と決断されるものです。ところが、<情報化社会という社会観察モデル>になると、今まで考えられていたようなトータルな、日本全体を一つの市民観、成熟観で覆うというよなことが部分的に困難になる部分に目がいく。

--元々、国民国家は幻想的なものですが……。

荻上さん:幻想であっても無機能ではありませんよね。しかし、社会的機能を持っている国家へのある種の<幻想>というものが前モデルのように機能を果たせなくなった部分が出てくるということです。一方で、ネットなどのメディア空間をすべからく<教育的>なものにしようという欲望も高まっているように見える。<教育>に悪いような情報は、事前にある程度歯止めをかけられないかといった話は、あちこちでよくみかけます。いずれにせよ、それも具体的な話となれば分析が求められますので、原理的なものに対する過剰な<懸念>は注意すべきですが。実際、多くの子どもが見るサイトには共通性があるし、人が閲覧できるサイトの数にはそもそも限度がありますから。潜在的なニーズが可視化されることは見受けられても、それを全体の<蓋然性>の問題として語るのは間違っている。しかし、<可能性>の中にも両面ある、という話も同時にする必要がありますね。

さらに新しい世代の台頭

--可能性とはどういうものですか。

荻上さん:『ねみんぐ!』の例がありますよね。直接には一回しか会ったことのない高校生同士がインターネットを通じて協力し、かなり面白いウェブサービスを作った。彼らのブログとかを見ると、ある種の淡々とした微温的な情熱にすごい共感を覚える。インターネットがある世界ってのが日常的であることの空気、というか。

--スタートラインが76世代とは完全に異なっている?

荻上さん:ある時代からのICTに対する観察には、ハイテンションな言説が付きまとっていましたね。インターネットによって明るい社会が実現するだろうという語りもあったし、そういう社会を自分たちが作っていくべきだという<倫理>についても語られてきた。カリフォルニア・イデオロギーとして揶揄される文脈もありますけど、ある種の既存社会とはオルタナティブの公共精神というか、公共性を実現させようというメンタルが付随させられていた。それはまた、叩かれ続けてきたネットの歴史でもありますよね。ネットは90年代からすでに、<アングラ>であり、<闇>であり、<イリーガル>であり、<オタク>であり、っていう散々な偏見がありましたよね。

--ネット初期から綿々とありますよね。

荻上さん:うん。その一方で、そこでのコミュニケーションに対して、相互にかなりの共通理解や高いリテラシーを求められるといった期待も今よりは高かったでしょう。<一部の人>のモノであり、<ムズカシイ>モノだったからこそ、共有された期待。それが、ネットの<世俗化>によって、風景が徐々に変わっているように思います。ネットが自作ベースで、頑張ってケーブル繋いだ果てに到達する世界ではなく、誰でも<カンタン>に出来るサービスになった。そういった風景と、ネット古参ユーザー独特のある種のハイテンションな言説とが結実したものが、梅田望夫さんの『ウェブ進化論』だとすると、それに対するバックラッシュが2007年に起こった。こう単純化すると分かりやすいかもしれません。


 2006年、<web2.0> という言葉の元、<インターネットにみんなが接続する社会>がユートピア的に語られました。その<みんな>には、もちろん子供とか、あるいは子どもに象徴されるような<未成熟な市民>も含まれている。で、<みんな>が<カンタン>にネットに繋がるようになったら、むしろこれまで散々といわれ続けてきたネットの<闇>が<みんな>に悪い影響を与えるのではないか、具体的には例えば<学校裏サイト>で子ども達がいじめられてしまうのではないか、といった<懸念>が指摘されだすわけです。象徴的なのは、2006年の流行語大賞にノミネートしたネット用語が<Gyao><ググる><ミクシィ><ユーチューブ(YouTube)>だったのに対し、2007年にノミネートしたネット用語は<ネットカフェ難民><炎上><闇サイト>でした。分かりやすすぎ(笑)。

 一応触れておくと、僕はこの一年、ずっと<学校裏サイト>について取材・リサーチしてきました。毎日数十のサイトを閲覧し、一〇〇人のサイト管理人をはじめとした利用者にアンケートやインタビューを行い、いくつかの企業に協力を求め、淡々とデータを集めてきました。近々、書籍にてそれらをまとめたものが発売される予定なので詳細な数値などはそちらに譲りますが、結論から言えば、多くのメディアや専門家が誇張ぎみに<学校裏サイト>の問題を叫んでいるものの、実際には多くのサイトは平和的に利用されているということが分かる。

 もちろんひどい書込みも中にはあります。ただ、アンケートをまとめてみると、<学校裏サイト>で叩かれるような人というのは、オフラインでも元々嫌われているような人が多かったりして、言うなればそこでは<スクールカーストの可視化>が起こっているというわけです。<学校裏サイト>が<いじめの温床>だと言われますが、そもそも<学校空間>自体が<いじめの温床>だったわけですから、学校と同じメンバーがウェブ上にコミュニティを持てば、同じような環境になるのは当たり前。もしそこでいじめが行われているのであれば、それはネットの問題として片付けるのではなく、コミュニティの問題としてケアされなくてはならない。そこでしなくてはいけないのは、<学校裏サイト>を使用させないことではなく、セーフティネットと、<学校勝手サイトの裏化>を防ぐための議論だということ。一方で、いじめにあったとき、ネット上のコミュニティが<逃げ場>になるケースも少なくないので、<学校裏サイト>の問題をもってしてフィルタリングを云々することは間違いだと、この場を借りて言っておきます。
 
 話を戻しますと、ネットに対するある種の過剰なまでの<不安>が<議題化>されている。実際、誰もが、インターネット を使う時代になったとしたら、<誰もが使う>ということを前提とした社会システムとウェブ空間というものを作らないといけなわけです。ところが、ハッカー精神で作っていこうという言説があった時代にネット空間を生きていた人、あるいはブログ黎明期から参加している人の中にも、新参者みたいなものをあまり歓迎しないだろうという空気もあるわけですよね。

--具体的にはどういうことでしょうか?

荻上さん:04~05年頃に起こった<ぱど厨・バッシング>てありましたよね。『ぱどタウン』という子ども向けのサイトがあつて、そういうサイトを使っているやつらは<ぱと厨>だと叩く。ある意味、ネットで<読むべき空気>っていうのが、黎明期からのインターネット空間の<空気>を前提としている部分がありますね。簡単に言えば<2ちゃんノリ>で、雑誌とかコミュニティとか、他のコミュニケーショを観察すると、なんでそんなイタイことやってるんだって空気が流れて<祭り>になったりする。新聞とかで<裏サイト>が報道されると、<裏サイト>をみんなで見つけて潰そうぜみたいなスレが立って、 ターゲットになったサイトがどんどん潰れていってという現象があったりする。そこではある意味ではネット上の自生的な秩序を重んじるんだけれど、そこで重んじられる自生的な環境というのが、一般には厳しいという現状もあるにはある。<子どもたちをインターネットから守ろう>という言説と同時に、<子どもたちからインターネットを守ろう>という言説が同居しているというわけです。

 でも忘れてはいけないのは、その環境もまた刻々と、自生的に変化が起こっているということですよね。<ぱど厨>だろうが<スィーツ(笑)>だろうが、別のノリを持ったコミュニティというのもが作られ、それなりに適度な共生が可能になっているということ。また、サイバースペースは確実に、より多くの人の< 欲望>に応じられるようになりつつある。『ねみんぐ!』のケースからは、そういう<可能性>の示唆があるように思いました。その背景には、非常に淡々とした、日常的なネット利用の風景がある。ネガかポジかといった二項対立を抜けた形で、議論を進めていかなくてはならないでしょう。

【続く】
(取材:永山薫/昼間たかし 構成:永山薫)

荻上チキ(おぎうえちき)さんプロフィール:

評論家。成城大学文芸学部卒業。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。
新刊『ネットいじめ』(PHP新書)は、7月16日に発売予定。
荻上式:ブログ
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/

トラカレ:荻上さんの運営する人文系ニュースサイト
http://torakare.com/

『αシノドス』:荻上さんが編集長を務める有料メールマガジン
http://kazuyaserizawa.com/synodos/mm/index.html


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おまけ:
 いわゆる「表現規制」をめぐる諸問題は、学問的には非常に学際的な分野であり初学者がアプローチすることは、困難を極める。
 そこで、まずは様々な人の話を聞き、フィールドワークを行うことが求められるだろう。
 今回の荻上さんのお話は、なぜ現在、多くの人々が規制することを妥当であると思っているのか? を知る手がかりになることは間違いない。長時間のインタビューをさらに加筆して頂いたため、このまま新書一冊分になるのではないかと思うほどの内容だが、じっくりと読み込んで欲しい。
 新書一冊分といえば、荻上さんが編集長を務める『αシノドス』は「毎月500円で新書分ボリューム」が売り文句である。
 私、昼間は最新の配信分(vol.7 2008/7/1号)に、 「知識人と社会運動家の踏み絵となった児童ポルノ法改定案」という文章を書かせて頂いた。
 この機会に、ぜひ皆さんにも購読して頂きたい。

(昼間たかし)