真鶴のシンボル的存在 三ツ石について | はまちゃんのブログ

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 一昨年の春(2010年)、東京深川から真鶴駅近くに会社を移転しました。世界でここ真鶴でしか採掘されない本小松石を使用して【がんこ干し】という干物を作る小さな会社です。日々思うことを徒然に書こうと思っています。


三ツ石からの日の出



ボクの所の「がんこ干し」の詰合せの一つに
三ツ石
の商品がある。
真鶴町のシンボル的存在「三ツ石」の名を拝借するなど、畏れ多いことだ。


だからか、三ツ石について調べたくなった。調べれば調べるほど迷路の中を歩き回っているような気がしてならない。これだという答えが、いまだ出て来ない。 

書物を調べると、「三ツ石」は「笠島」が正式名称という。
ただ、国土地理院発行の地図には「三ツ石」明記されている。


右奥に大島が見える


沖から見た三ツ石



この三ツ石について、名前の由来や伝記などを調べてみたが、今一つ分からなかった。
名前の由来については、『風土記稿(注1)』に

三島相並べり、故に一名三ツ石とよべり

とある。しかし正しくは「笠島」といったとある。蓑笠をつけた姿に似ていること
からつけられたものだとか。
室町時代に熱海に来遊した五山僧の義堂周信は空華集の中に、

真名鶴崎の堅島は三の峯が山の字を表わしているようで愛すべき形である

と述べている。『風土記稿』は義堂のいう堅島は笠島の誤りであるとしているが、堅島を
「片島」としてとらえると、「島の片側が陸地に連なる」情景を端的に表現する地名となり、
本来は堅島であったものが、笠島に転訛したものと考えられる。
参考 真鶴の歴史を探る 遠藤勢津夫氏著


「三ツ石」なのか「笠島」なのか、これ以上のことは分からなかった。

しかし、他の郷士資料を読んでいたら、面白いことが分かった。
ボクの事務所のすぐ下にある子之神社(ねのじんじゃ)の由来の中に、三ツ石ができたこと
が書かれていた。

遥か太湖の昔、大海原の彼方から、龍王、妃、王子の三柱(みはしら)の神々が、
「荒藺之崎(あらいのさき)」と呼ばれていた、現在の真鶴岬に御船に乗られておい
でになり、近辺の栃を開拓され、この三柱の神々はすべてを成し遂げられた後、大き
な三体の岩に変化され、それが現在の三ツ石と伝えられている。

という。三ツ石がどうやってできたかが分かった。

こうなると、なかなか面白い。
ちょっと、挫けていたが、こんな面白いお話しが出てくると、興味をひかれる。
子之神社のことも、改めてブログに書きます。

『風土記稿(注1)』・・・「新編相模国風土記稿」という。江戸幕府が全国に命令を
出して、各藩から資料を集めさせ、幕府直轄の編纂事業を行い完成させたもの。
天保12年(1841)に相模国のまとめたものが完成。この中に足柄下郡早川荘(小田原
城下以外と早川村から福浦村までの海岸沿いと土肥を含めた地域)が編纂されている。