■Encounter wit Art■ハイ・レッド・センター②
・・・展覧会場へ入る前に置かれているヘンリー・ムーア(Henry Moore)『ナイフ・エッジ(The edge of knife )』1961/76年/358×140×120が気になり、細部を観察すると台座部分に《H.NOACK BERLIN》の刻印を発見!調べると~(画像は前回①に掲載)
★Bildgießerei Hermann Noack GmbH & Co.)は、ベルリンにあるドイツの美術鋳造所で、元の所有者とその直系の子孫3人にちなんで名付けられました。彼らは全員同じ名前を持ち、経営者たちが経営しています。この団体は1897年にヘルマン・ノアックによって設立され、彫刻家のアウグスト・ゴールとフリッツ・クリムシュの初期の支援を受けました。ノアックはオーバーラウジッツで生まれ、ラウフハンマーで教育を受けた。彼はグラデンベック鋳造所で技術を学び、その後自身の事業を立ち上げました。彼はラインホルト・ベガスによる国立カイザー・ヴィルヘルム記念碑の制作にも携わっていました。鋳造所は同じ家族の4世代が経営しており、全員同じ名前を持っています。ヘルマン・ノアック1世(1867-1941)ヘルマン・ノアック2世(1895-1958)ヘルマン・ノアック3世(1931年生まれ)ヘルマン・ノアク4世(1966年生まれ)事業はフリーデンナウのフェーラー通りに移り、当時はベルリン近郊の小さな集落でした。第二次世界大戦後に施設は再建され、鋳造所は2009年までフリーデンアウにありました。2010年には、シュプレー川近くのシャルロッテンブルクにあるアム・シュプレーボルト沿いの10,000平方メートル(110,000平方フィート)の新しい建物に移転しました。https://www.noack.berlin/
・・・ハイ・レッド・センターの活動拠点は新橋「内科画廊」だというので、これまた調べてみると~
★内科画廊
東京都港区新橋2丁目7番地『堤第二ビル』3階
慈恵医大のインターン生だった宮田國男は、父親の死によって相続した新橋駅前の堤第二ビル3階の医院を貸画廊とし、内科画廊(Naiqua Gallery)と名付けた。内科画廊では、開廊の契機となる★1963年5月のハイレッド・センターによる「第六次ミキサー計画 物品贈呈式」をはじめ、閉廊の66年2月までに約125の展覧会が開催され、飯村隆彦、オノ・ヨーコ、篠原有司男、三木富雄、観光芸術研究所(中村宏、立石紘一)ら、ジャンルを超えた多くの作家の発表の場となった。また、当時の読売アンデパンダン展に代表される反芸術の傾向をもつ作家が多数参加した中原佑介の企画による「不在の部屋」展も、63年7月に同画廊で行なわれている。63年6月に発表した画廊マニフェストのなかで、宮田は内科画廊自体を「一個の試験管」と形容している。試験管の機能として画廊が「実験室」であること、また作家に「明確な意図をもった実験者」としての性質が求められたことからもわかるように、反芸術の作家が集まる交流の場という側面に留まらず、パフォーマンスやフィルム上映会(内科シネマテーク)など、読売アンデパンダン展中止以後の受け皿として、前衛的なイヴェントが多数行なわれたことの重要性は指摘するべきであろう。なお、2000年3月に京都造形芸術大学のGallery Rakuにて、宮田の娘である宮田有香の企画によって、当時の資料や作品を展示した「内科画廊'60年代の前衛」展が開催された。
東京都新宿区にある『新宿眼科画廊』は内科画廊へのオマージュの意味も込めて命名されたものである。
