・・・写真集「平和のアート(彫刻)戦争の記憶」にこだわったのは、藤田観龍さんがもう一つの「記憶」にかかわる方だからです。
《参考1》生誕100年・佐藤忠良『野外彫刻・アトリエの日々』写真展
2012年7月23日(月)~7月29日(日)/於:(銀座コリドー街)銀座アートホール
104-0061東京都中央区銀座8丁目110 番地高速道路ビル
http://ginza-arthall.com/exhibition/2012/120723/
《参考2》「タウンニュース:2014年9月26日号」
http://www.townnews.co.jp/0206/2014/09/26/252863.html
アートガーデンかわさきで初の個展を開催する報道写真家「藤田観龍」さん
追分町在住71歳、現場の「希望」に光当てる
報道カメラマンとして日本各地を飛び回り、49年。集大成となる写真展「写真リアリズムの軌跡」をアートガーデンかわさきで10月7日から開催する。「現場には必ず人間のドラマがある。それを写真として切り取り、記録することで、その事件や事故、災害の教訓を後世に残したい」。そんな信念で、御巣鷹山の日航ジャンボ機墜落事故、雲仙・普賢岳火砕流、阪神淡路大震災など、数々の歴史的事件の現場でシャッターを切り続けてきた。
福岡県出身。中学卒業後に上京し、東京都港区の工場に勤めた。カメラ部品の製造にかかわったことから、撮影にも興味を持ち、25歳で新聞社の写真部に転身した。撮影時には「希望」に光を当てることを忘れない。どんなに悲惨な事件・事故現場でも、遺体の写真は一切撮らなかった。生存者が必死で生きようとする姿、救助活動にあたる自衛隊員や消防隊員の姿をフィルムに収めた。
報道写真とともにライフワークとしているのが、全国各地のモニュメントの撮影だ。「自然災害もそう、戦争もそう。繰り返してはいけないというメッセージを伝える意志が結集している」。自身の写真哲学にも通じるモニュメントのあり方に魅了され、約30年かけて4000点以上を写した。彫刻や碑にテーマを絞った写真集も5冊刊行している。現在は東日本大震災の被災地に新たに設置された慰霊碑などを撮影。6冊目の写真集としてまとめあげるのが、次なる目標だ。
川崎区に住んで50年。幼少期から好きな野球を観に、川崎球場(現・川崎富士見球技場)には足しげく通った。「報道で入ると好きな角度から観戦できる。楽しかったね」と笑う。村田兆治や落合博満のプレーに息をのみながら、夢中でカメラを構えた。大阪球場で「江夏の21球」を撮ったのも自慢の一つだ。名前に入る「龍」にちなみ中日ファン。現在も息子や孫と年7、8回は球場に通う。
《参考3》「タウンニュース:2014年10月3日号」
http://www.townnews.co.jp/0203/2014/10/03/253922.html
事件・事故撮り続け、半世紀/藤田観龍さんが写真展
川崎区在住の報道写真家・藤田観龍さんが10月7日(火)から12日(日)まで、初の個展「写真リアリズムの軌跡」をアートガーデンかわさき(川崎区駅前本町12の1タワー・リバーク3階/JR「川崎」駅前・京浜急行「京急川崎駅」徒歩2分)で開催する。会場には、1960年代の春闘の様子をとらえたものから、御巣鷹山・羽田沖での日航機墜落現場、東日本大震災後の被災地まで、藤田さんが49年のカメラマン人生で撮りためた報道写真を展示。
岡本太郎、松本清張、森光子ら、著名人のポートレイト、全国各地のモニュメントを収めた写真なども合わせ、約100点が並ぶ。午前10時から午後6時。入場無料。詳細などの問い合わせは藤田観龍さん(【電話】044・366・2635)へ。
《参考4》2009年8月
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-249.html
藤田さんは「狼煙」特集号に使用した博光の肖像写真を撮影された方で、今年初めにこの写真を展示用に額縁入りでお送りくださいました。戦後65年の来年に向けて、平和に関する石のモニュメントを撮影に歩いていらっしゃるようです。大島博光の写真は85年の2月、赤旗日曜版の取材の時に撮影したそうです。気さくな方でしたとおっしゃっていました。
《日本航空123便墜落事故》
1985年(昭和60)★8月12日(月)18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した航空事故である。運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2017年7月の時点で最多であり、墜落事故および単独機の航空事故でも世界最多である。夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれることもある。1987年(昭和62)6月19日に航空事故調査委員会が公表した報告書では、同機が1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故後の、ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。これをもって公式な原因調査は終了している。航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声があるが、現在に至るまで行われていない。
・・・亡くなられた★「坂本九」さんは、知人の市会議員選挙のために★「羽曳野市」に来られる途上でした。さらに、★「教え子」姉妹は大好きな★「展覧会」を東京まで鑑賞に行っての帰りでした。このニュースを知った時、私は★「福井スケッチ旅行」でホテルに滞在していました。暑い夏だからこそ、「原爆」のことと同時に「墜落事故」のことが思い出されます、合掌。
・・・ぜひとも関西(大阪)で写真展をやってほしい、カメラマンです。さて、写真集「平和のアート(彫刻)戦争の記憶」カバー表紙を飾った彫刻/作:吉田光正(インド砂岩)について、
【吉田光正】
https://yoshida-art.jimdo.com/
私は彫刻制作を職業としています。現代を明日に向かって前向きに生きる人間と子ども像を通して、その生命力を表現しています。私の制作した作品が人々に感動と喜びを与えたり、明日へ向かって生きる勇気や励ましになったり、また、心を休める支えになったりするような作品の制作をめざして日夜取り組んでいます。作品設置の公共施設に内容が最もふさわしくマッチしたモニュメンタルなものから、家において毎日見ていて楽しんでもらう様な小さな作品です。内容は石彫、(インド砂岩・大理石・花崗岩など)テラコッタ(素焼きの彫刻)、木彫、ブロンズ像、胸像などです。そして、彫刻文化の普及と発展に役立っていければありがたいことです。
1941高崎市に生まれる。1963武蔵野美術学校(現大学)彫刻科卒。1964第17回日本アンデパンダン展出品1968ブルガリア・ソフィア第9回世界青年学生平和友好祭日本代表団参加、同国際美術展出品1972「青年」文化庁全国選抜展出品1977自由美術展佳作賞(最高賞)受賞。78,79,80にも受賞1985第36回県展★「烈風の中で」山崎記念特別賞受賞1990自由美術展「母と子ーわたす」平和賞受賞1992吉田光正彫刻作品集「石と語る」出版2006.4月1日~11月15日高崎市役所城址公園、音楽センター前などを会場に吉田光正野外彫刻展、石に命を吉田光正野外彫刻展作品集出版2008吉田光正映画「石と語る」38分完成 2011高崎市文化賞2012.10月28日~12月6日までキューバへ、キューバ共和国在日大使館よりサンティアゴ・デ・クーバでの彫刻シンポジュームヘの招待を受け参加 「生命の讃歌」大理石/高さ3.5×2×1メートル大の作品を制作して、永久設置しました。
2015.1月16日~21日高崎シテイギャラリー彫刻制作55周年記念・吉田光正彫刻展、彫刻60点・版画デッサン50点20代から昨年までの彫刻がトータルで見られるように展示、大変好評でした。700人の方々に鑑賞いただきました。
http://www.msb-net.jp/msbinfo/msbinfo_exhibition/2015/01/07/8531
現在、自由美術協会会員(審査員)日本美術会委員、群馬県美術会副会長、群馬芸術文化協会副会長、高崎市民美術展運営委員長、美術集団レアリスト会員、群馬版画協会会員。
http://nttbj.itp.ne.jp/0274224383/index.html
★「烈風」は、上州のからっ風をテーマとして制作したオリジナルのブロンズ作品です。
http://abk.furusato-tax.jp/product/detail/index/10209/38226
《自由美術協会》
自由美術展出品の中で創作を磨き深めました。私が自由展に初出品したのは1976年の35歳の時で比較的遅い出発です。それまで毎年展覧会を拝見していて、同じ美術大学の先輩がいたこと、彫刻部のある公募団体の中で自由美術展会場が一番魅力的で優れた彫刻が一杯ありました。会の趣旨がすばらしいのと、其の運営も理想的に運営されていたことなどに引かれたからです。会員同志それぞれが対等平等で民主的に運営されています。それはわたしが会員になってからよく理解できました。彫刻部も60人ぐらいを維持しており会員全体が交流できる理想的な数であると思っています。40年の年月の間には少しずつ入れ変わっております。何より会員一人一人が対等で上下を作らずにそれぞれが真剣に創作に取り組んでその時の力作を展覧会に出品して、切磋琢磨して作品で勝負しています。其の姿勢がすばらしいです。日本でありかちな肩書の上下や師弟の関係で左右されることかありません。その関係は理想であっても実現はなかなか難しいのです。自由美術は作品本位でそれぞれが勝負しています。優れた良い魅力的な作品を造ることは非常に難しいことです。それは地道にしかも謙虚に自分の創作目標としている課題に取り組み、より深めていかなければなりません、言葉では簡単ですが実際の創作は非常に難しいです。私か彫刻を始めた1960年代は絵画を含めて抽象主義が全盛の時代です。又、彫刻全休の中で石彫を中心に制作している作家はほんのわずかでした。しかし世界の彫刻の歴史を眺めた時石彫が圧倒的であったことも知りました。また、当時の日本の現代彫刻を見たとき技術的には優れた作品が一杯ありますが彫刻のダイナミックスさや強さが足りないことにも気が付きました。具象彫刻は特に其の様に思いました。しかし日本の彫刻の歴史は仏像ですが飛鳥、白鳳、天平そして鎌倉時代は世界に誇れるダイナミックスさや強さを持っていることなどからも学びながら現代彫刻を創ることになりました。石彫を中心にした彫刻をやろうと思い創作に取り組んできました。また、市民の中に彫刻を普及させるために街中の公共施設にひとつでも多くの彫刻の設置を目標に取り組んでいます。これは自分の彫刻に限らずに藤岡市出身の星野宣(1906〜1990)柳原義達など他の人の彫刻を建てるということでも努力をしてきました。私自身今日までに公共施設に70ヵ所に、海外もオーストラリアのパースのカーティン大学、キューバのサンチャゴ・デ・クーバ市に設置してきました。石彫を中心にやり始めてから年月は経ち今日では現代社会全体にとって文化芸術の果たす役割は非常に重要であると言う認識はできてきましたが、まだまだ彫刻に対する理解は進んでいません。野外彫刻もだいぶ多くなってはきましたが。市民が彫刻に接する機会がまだまだ少ないからです。もう一つは彫刻制作者と愛好者を増やすことです。1982年に群馬彫刻研究会を創立、共同アトリエで毎週一回集まり創作の指導研究を行っています。1、モデルをおいて彫刻の基礎を十分身につけること。2、彫刻研修会で日本の古典や世界の彫刻の歴史や現代彫刻から学ぶ美術館巡り。3、現代作家から直接学ぶアトリエ訪問、佐藤忠良、高田博厚、柳原義達、堀内正和、峰孝、鈴木政夫、西常雄、北村隆博、池田宗弘などの作家たちです。創作技法や創作の造形哲学など作家の人生哲学を含め学ぶことができました。彫刻にかかわる人達を増やす努力をしています。
・・・吉田光正さんの「烈風」シリーズ?に感銘を受けたのは、きっと★「あの彫刻」を彷彿とさせたからではないかと思っています。次回は、その彫刻について紹介します。




