◆東横堀川
http://www.osaka-info.jp/jp/search/detail/sightseeing_2032.html
大阪市中央区を流れ、北は土佐堀川、南は道頓堀川につながる全長約3kmの川。天正13年(1585)、秀吉が大阪城築城の際に、外堀として開削した。当時は「新掘」と呼ばれていたが、慶長5年(1600)ごろ、西横掘川が開削されたことを受け、新掘はそれに対し東横掘川と名付けられたとか。東横堀川には14本もの橋が架かっており、そのほとんどが有名なもの。東横堀川の北端、大川の分流点に架けられ、船の荷積み荷おろしで賑わい、古くから大小の旅宿や料理屋が建ち並んだ淀屋橋、金融の中心街として西詰め付近に両替商が軒を並べた今橋、幕府の高札(幕府の法令などを知らせる掲示板)が立てられ人の往来が絶えなかった高麗橋、船場と大阪城を結ぶ重要な地位を占め、橋詰の北東には西奉行所が設けられた本町橋など、東横堀川は大阪の主要な場所をつなぐように流れた由緒ある川だ。近年では、この東横堀川の流れに沿って建つ阪神高速道路橋脚柱をライトアップして「光のトンネル」を演出するイベント「東横堀川ライトアップ」なども注目され始めている。
◆葭屋橋
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000024094.html
東横堀川の北端、大川からの分流点に架けられた葭屋橋は、俗に築地と呼ばれた蟹島遊廓への通路として設けられたものである。この遊廓は天明4年(1784)、葭屋庄七らによって開発されたもので、橋も天明年間に架設されたと考えられる。蟹島の地は大川の眺望が非常によく、料理屋、旅館などが建てられ発展した。葭屋橋の架橋地点は通船の数が多いうえに、水流が複雑であるため、橋脚へ船が衝突する事故が多かったようである。また、大川の洪水時に、度々被害を受けたことから、架け替えにあたっては種々の技術的な工夫がなされた。明治初年に架けられた葭屋橋は当時としては大変珍しい斜張橋の原理を用いたもので、大変評判になったようである。葭屋橋の通り(府道石切大阪線)が現在のように広くなったのは市電事業によってである。北浜の交差点から天満橋の南詰までの市電は明治44年10月に開通しているが、橋はその直前の7月に完成した。一方、蟹島と呼ばれた料理屋街は道によってへだてられた形となり、しだいにさびれていった。なお現在の橋は昭和41年に架け替えられたもので、2径間の合成桁が採用されている。
◆今橋
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000021653.html
大阪の陣の様子を描いた絵図にこの橋の名が記されていることから、豊臣時代には既に存在したと考えられる。江戸時代には、橋の西側に平野屋五兵衛、天王寺屋五兵衛など大物両替商が軒を並べ、大阪の金融の中心地であった。また北浜には寛保3年(1743)金相場会所が設けられ、明治11年(1878)証券取引所が設立されるまで、金銀銅三貨の取引がこの地で行われた。元禄の頃の資料に、橋長75.8m、幅員5.5mと記されており、町橋としては規模の大きなものであった。橋のたもとから尼崎方面への乗合船が出ていたとの記録もある。今橋は大正13年に近代橋になったが、戦後、東横堀川に沿って阪神高速道路が建設されたときに若干の改造が加えられた。その後老朽化が進んだため、現在の橋に架け替えられている。
◆高麗橋
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000022255.html
高麗橋は、大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、慶長9年(1604)には擬宝珠をもつ立派な橋となっていた。高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なものである。高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び、人々の往来が絶えなかった。そして橋の西詰には幕府の高札が立てられていた。江戸時代に交通の要所など重要地点に架けられ、幕府が直接管理する橋を公儀橋と呼んだが、この高麗橋は公儀橋の中でも特に重要視されていた。明治時代には里程元標がおかれ、西日本の主要道路の距離計算はここを起点として決められた。明治3年(1870)にイギリスより輸入された鉄橋に架け替えられ、「くろがね橋」とよばれていた。現在の橋は昭和4年に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋である。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っている。
◆里程元標跡
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009634.html
江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点となった。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として★梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)である。
【参考1】道路元標
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009908.html
江戸時代諸街道の起終点は、高麗橋であった。その後、道路法の制定で国道ルートの整備がされ、大正11年には現大阪市役所前に設置された。さらに昭和27 年新道路法が成立(このとき、東京-大阪間国道2号が1号になった)、道路元標も現在位置に移設された。
【参考2】「筋」と「通」
船場内(南)の筋は、東から箒屋町筋、板屋橋筋、八百屋町筋、堺筋、難波橋筋、中橋筋、三休橋筋、丼池筋、心斎橋筋、御堂筋、佐野屋橋筋、渡辺筋、横堀筋などの筋が南北に走っていました。
江戸時代の船場では、東西の通りをはさんで向かい合う家々が同じ町内を形成しました。ですから船場では東西の通りがメインで、北から南へ通りの名を覚える数え歌がありました。浜(はま)、梶木(かじき)、今は浮世に、高(こう)、伏(ふし)、道(ど)、平(ひら)、淡(あ)、瓦(かわら)に、備後(びんご)、安土(あづち)、本(ほん)、米(こめ)、唐物(からもの)、久太(きゅうた)久太に、久久宝(きゅうきゅうほう)、博労(ばくろう)、順慶(じゅうけい)、安堂(あんど)、塩町。
きちんと書くと、浜(北浜、土佐堀浜通)、梶木町(内北浜)、今橋、浮世小路、高麗橋(こうらいばし)、伏見町、本町、米屋町(南本町)、唐物町、久太郎町、南久太郎町、北久太郎町、北久宝寺町、南久宝寺町、博労町、順慶町、安堂寺町、塩町、浜(南浜、長堀川の浜)となります。
【番外】大阪市立開平小学校
541-0042大阪市中央区今橋1-5-7/06-6203-4212
http://www.ocec.ne.jp/es/kaihei-es/
都心部のドーナツ化による児童数の減少に伴い、1990年に大阪市立愛日小学校と大阪市立集英小学校の2校を統合して発足した。学校敷地は旧集英小学校のものを継承している。校名は、朱子(朱熹)の『近思録』の一節より採られた。
【番外】1965「日経高麗橋ビル」
大阪市中央区高麗橋1-4-2
日経高麗橋ビルの建て替えプロジェクト。日経新聞社大阪本社の機能が一部移転する。2015年5月の完成を見込む。物件が立地するのは北浜エリア。日本で最も高いマンションであるThe Kitahamaの東側で、道路をはさんで東横堀川に面している。既存建物は2013年に解体が完了した。 用地は「高麗橋地区地区計画」に指定されており容積率が緩和されている。同社はかつて日経高麗橋ビルに大阪本社を置いていた。現在は大手前エリアに移転している。
【18】1930「トキワビル」
大阪市中央区高麗橋1-6-1/1F(bar yamaneko)06-6203-0919
北浜の旧三越の裏側にある昭和初期のレトロビル。ドアや窓などの部位はレトロ感が漂っているが、外壁が一部煤こけていたり、建物の側面部分にはタイルが施されていなかったりと、よくある古い雑居ビルのようにも見える。しかし、夜になるとその表情はガラリと変わる。その昔、
元宝塚のママさんがされている「SHOT BAR TUBAKI」でしたが閉店。その後、バー「Beer & WhiskyYAMANEKO」になっています。「ロータスフラワー」という花屋さんが隣にあります。
【参考】The Kitahama(ザ・キタハマ)北浜タワー
サブネーミングとして住宅ゾーンをThe Kitahama Tower、付属の商業施設ゾーンをThe Kitahama Plazaと呼び、併せてThe Kitahama Tower & Plazaとしている。2014年4月現在、日本で最も高い(209m)分譲マンションである。この場所にはかつて、百貨店の三越大阪店があったが、2005年5月5日に閉店した。その跡地に、長谷工コーポレーションが主体となって建設したのが、このThe Kitahamaである。住所上は北浜ではないが、北浜駅には直結している。なお、北浜から撤退した三越は2011年、JR大阪駅・大阪ステーションシティに「JR大阪三越伊勢丹」として移転・再開業した。




