・・・靱公園「花と彫刻」展を主催する「大阪彫刻家会議」のことを調べ、彫刻家・北田孝之さんを知りました。
【北田孝之】/大阪彫刻家会議名誉会長
1937 大阪府堺市に生れる
1961 行動美術展出品 現在に至る
1962 第5回現代日本美術展 出品
1963 第1回全国野外彫刻コンクール 出品 (宇部 常盤公園)
1969 大阪花と野外彫刻展、京都造形展、横浜現代美術野外フェスティバル
1981 「はこで考える-あそびの木箱」 招待出品 (86年、92年にも出品)
1988 第11回神戸須磨離宮公園現代彫刻展 招待出品
1967~大阪、京都、名古屋、ハワイにて個展30回開催
大阪彫刻家会議名誉会長、行動美術協会会員、堺美術協会副会長、堺市文化功貢者など
・・・北田さんの作品が「堺市中区役所」にあるらしいので、
◆堺市中区役所
599-8236中区深井沢町2470番地7/072-270-8181
http://www.city.sakai.lg.jp/naka/index.html
【深井幡池遺跡】
支所の建設に先立ち行われた遺跡の発掘調査で、須恵器という灰色の堅い焼物を焼いた窯跡と、土師器という茶色の柔らかい焼物を焼いたと考えられる窯跡などがみつかりました。須恵器の窯跡は、谷の北側の傾斜を利用して作られていました。全長は明らかではありませんが、幅は約1.85メートルありました。窯の下のほうにある焼成不良品などを捨てた灰原と呼ばれる場所からは、食べ物などを貯蔵するための容器である壺・甕や、盛付けるための容器である高坏・杯などがみつかりました。ここから泉北ニュータウンにかけては、浅い谷と低い丘陵の緩やかな起伏の地形がひろがる。総数約1000基の窯が作られた古代の一大窯業地帯でした。『日本書紀』にみえる「陶邑」にちなんで「陶邑窯跡群」と呼ばれており、ここで焼かれた須恵器が近畿地方以外へも運ばれたことが、各地の古墳や遺跡の出土品から知られています。窯跡群の中心は泉ヶ丘駅から光明池駅にかけてのあたりですが、この深井幡池の窯と同様に、周辺部の同じような地形のところにおいても窯跡がみつかっています。たとえば、小阪の原池、石原町の吉田池、金岡町の長池、深井畑山町の深井畑山窯跡群などがあげられます。こうした窯跡は「陶邑窯跡群」での生産が拡大してきた5世紀後半から6世紀中頃のものです。この遺跡の出土品をもとに焼いた現代の須恵器を、支所1階市民待合ロビーで展示しています。いっぽう、土師器を焼いたと考えられる窯跡は同じ斜面の東寄りに造られていました。長径1.65メートル、短径1.3メートルのだ円形で、深さは0.18メートル程ありました。窯は火熱を受けた痕跡は顕著ではありませんでしたが、中には炭と土師器の細片がみられました。窯跡のすぐ下方にはたくさんの土師器が並んだような状態で出土しました。土師器の年代は8世紀の前半から中頃と思われます。土師器の窯は全国的にみても類例に乏しく、大変貴重な発見でした。この窯が造られた後に浅い谷をせき止めて灌漑用の溜池が造られました。いつ頃造られたか定かではありませんが、行基によって造られた伝承があります。池は「幡池」(「八田池」ともいいました)と呼ばれ、遺跡の名前にもなりました。1994年3月堺市教育委員会
・・・さらに、初詣第2弾として「住吉大社」へ行くことにしました。
・・・「象」に思わず、寄り道です。
◆市立堺病院 http://www.sakai-city-hospital.jp/
堺市堺区南安井町1丁1番1号/072-221-1700
【堺病院の豆知識】
http://www.sakai-city-hospital.jp/kango_c/smh-ml00004.html
Q.病院って白い外観のところが多いけど、堺病院はなぜ紫系の色なの?
A.設計時には定番の白やアイボリー、レンガ色など他の候補もあったという外壁の色ですが、最終的には現在のような紫系の色になっています。長く病院に勤める人を捕まえては意見を伺ったのですが、「分からんわ~」、「市の花であるハナショウブの色かなあ」、「うーん」・・・となかなか核心に迫ることが出来ませんでした。そこで、建設に関わった当時の担当者の方にお話を伺ったところ、「年月を経過しても汚れが目立ちにくく、ユニークでいい意味で病院らしくない色」ということで選ばれたとのことでした。確かにこういった色の病院ってあまり見かけませんよね!?
Q.象さん広場にある象のモニュメント、鼻から水が出ているときと出ていないときがあるのはなぜですか?
A.象の母親が、子どもにシャワーをかけて慈しむ様子は、慈愛により守られ、育まれた生命の尊さを、ほのぼのとした優しさの中に分かりやすく伝えています。また、親象の脚の間や鼻の下はくぐって通り抜けることができ、子象に降り注ぐカーテンシャワーにも手を伸ばして触れ親しめるもので、いっそう親近感を呼び起こします。この親象の鼻から水が出るのは、5月の連休明けから10月末までの朝9時から午後5時までです。設備担当者が機械を運転して水を循環させて鼻から水を出しています。ただし、雨の日や風が強い日は水が飛び散ってしまうので止めています。もちろん水は消毒していますが、くれぐれも飲んだりしないでくださいね。
Q.象のモニュメントには何かいわれがあるんですか?
A.当院のシンボルにもなっている公開空地の象の親子の彫刻ですが、作者の方が「生命の尊さと愛」を地球規模で伝えたいという気持ちから、大自然に育まれた命の象徴を、アフリカ象の親子の姿に託して表現したものです。大人から子どもまで、世代を超えて大きな感動のなかに輝く生命の躍動を生き生きと伝えるもので、動物の中でも大きく、目に付きやすく、かわいいものをということで象が選ばれました。また象の親子とすることで、愛、やすらぎ、ふれあいを表現し、病院のキャッチフレーズ「やすらぎとふれあいの心のかよう病院」にマッチするように考えられたそうです。実はこのモニュメント、「どろんこ坊や」という名前までちゃんと付いているんですよ。
【安藤泉】(1950~)鍛金彫刻家
http://www.city.yamato.lg.jp/shakai/yib/at/andou/
1950 神奈川県に生まれる
1974 東京芸術大学美術学部卒業
1976 東京芸術大学大学院鍛金専攻修了
1977 東京芸術大学美術学部研究科修了
1978 東京芸術大学非常勤講師(~79)
1991 多摩美術大学非常勤講師(~93)
1993 多摩美術大学客員教授となる
・・・これほどの作品を設置している病院ですから、他にもいろいろありそうな気がします。
【浦野八重子】(1948~)
http://www16.big.or.jp/~pub-arts/uranwk/uran5000.htm
1948 長野県に生まれる
1973 東京造形大学彫刻科卒業
1976 東京造形大学彫刻科研究室修了
1987 第2回現代日本具象彫刻展大賞受賞(千葉県立美術館)
1996 大阪府堺市市立病院に《生きる物達≫を設置
・・・予想どおり、ありますあります。
・・・なんと「流さん」まであるではありませんか。感動です。
【流政之】(1923~)SOYA SAKAI「EEYANKA」
http://www.nagaremasayuki.com/
【参考】「雲の砦」永遠に変わらぬ平和を表現
ニューヨークの世界貿易センター(WTC)ビル前の広場のために作った。完成は1975年。構想から7年ぐらいかかっている。当時、「世界最大級の石の彫刻」と言われた。初めて日本で彫刻の個展を開いたのは55年。その後、作品を買ってくれたロックフェラー3世夫人などが応援してくれて、64年に米国での暮らしを始めた。第2次大戦中は海軍の零式戦闘機パイロット。軍人がアーティストとしてアメリカで世に出るなんて、その後ないんじゃない。WTCの仕事は、国際コンペで指名された。審査では「日本にはそんな技術があるのか」と聞かれて。厳しかった。日本には、外国に匹敵する歴史的彫刻家がいなかったから。当時、110階建ての建物なんてない。それと張り合うわけですよ。だから、えらく心配だった。困ったなと、ダウンタウンで1杯飲んでいたら「どうせ地上からは、半分より上は見えない」と気づいた。どっしりした石が、ちょっとねじれて浮かび上がる緊張感。相反するものが一つになっている。私にとって基本形となった作品でしょうね。表したかったのは「永遠に変わらざる平和」。実はあの形は、初の個展に出した、第2次大戦の日本とアメリカのパイロットを追悼する木彫「飛」(55年)に全く似ている。平和を願った時、頭にちらついた。世界経済の中心WTCに平和を祈るものを作ったのは、ちょっとからかったんだ。経済は闘いだから。そこが、平和の原点になるとは……。2001年9月11日、飛行機によるテロ攻撃では「雲の砦(とりで)」は壊れなかった。それを知った時は「さすがだ」と。中には鉄骨が入っているから強度はあった。でも、救助に使う重機を運び込むため壊された。残っていたらすてきだったけど、「ここにナガレの彫刻があった」と繰り返し繰り返し語られることで、人の記憶には残るでしょう。04年、個展を開いた札幌市の北海道立近代美術館に、新たに作った半分の大きさの「雲の砦Jr.」を設置した。いつか、もう一回作るとなれば、作ろうと思う。その時のために、日本に置いてある原型ですね。(2012年6月朝日新聞)
・・・その上「寒桜」まで観ることができ、こいつぁ~正月(春)から縁起がいいなあ。




