・・・次の「教会」に向かう途中、地下鉄四ツ橋線「肥後橋駅」前「リーガ中之島イン」に隣接する「住友クラブ」の南側に、人物レリーフの付いた立派な石碑が建っていました。なんと、
◆梅花女学校発祥の地碑/大阪市西区江戸堀1-13-10
≪碑文≫梅花女学校発祥の地
明治11年1月この地で大阪で初めての府知事認可による梅花女学校が創立者・沢山保羅によって始められた。創立120年を記念してこの碑を建てる。(平成9年10月、学校法人・梅花学園)
※澤山保羅、協力者成瀬仁蔵ほか教会信徒有志らにより、キリスト教主義教育を建学の精神とする梅花女学校が、大阪・土佐堀裏町十番地(現・肥後橋交差点南西)に開校。海外からの宣教師団によるミッション・スクールではなく、日本人教会と生徒費用で運営される国内初の自給学校でした。学校開設には保羅が1年前(1877年)に設立し、牧師をつとめた浪花公会とその母教会である梅本町公会(現・大阪教会)の教会員の協力があったことから「梅花」と名付けられました。この女学校が梅花学園の歴史の始まりです。
・・・これまで「梅花学園
」については、
梅花女子大学・短期大学「学園資料展示ホール
」(茨木市)を紹介し、梅花学園中学校・高等学校を「円形校舎
」(豊中市)で紹介してきました。ですから、この「碑
」(大阪市)で3度目の紹介になります。「3」好きの私としては大満足です。さらに、横断歩道を東へ渡ったところに、
★肥後橋官報ビル
大阪市西区江戸堀江戸堀1-2-14/06-6443-2171
https://kanpo.net/location/
大阪は西区に位置する「肥後橋官報ビル」。ここで株式会社かんぽうの事業が営まれています。かんぽうビル2階の店舗では、政府刊行物以外に「四季報」「建設物価」「積算資料」などの販売もしておりますので、ぜひお気軽にご来店ください。
官報ビル2階無窓部分、西面、南面および柱には、彫刻家三上友也氏による生命に対する永遠の賛歌がレリーフとなって刻み込まれています。そのメッセージは「生きよ、生きよ、生命あるものの全てが、安らかに!」という三上氏自身の言葉によって語られ、やがて生まれでる命、去っていった命をも含めた全ての命あるものが「たった一度の生命を全う出来る世の中でありますよう」という願いで結ばれています。柱もまた賛歌を構成する一部であり、あらゆる命の創造の源であるアダムとイブ、そして秩序の始まりを謳っています。アダムがさし出すイブの冠をイメージした柱頭には、本を読みましょう!というメッセージを込めて、篆書で「書知必読」「図悟真視」と刻まれています。美観誘導指定地域に指定される四ツ橋筋にふさわしく、生命への賛歌を謳った柱が官報ビルを支えています。エントランスに何かアクセントをつけたいと考え、羽仁もと子先生の創られた大阪友の会幼児生活団(幼稚園)に陶板の制作をお願いしました。制作したのは6歳組の30数人で、テーマは子どもたちが飼っている鳩。生活団も大変はりきって下さり、芸術院会員の木下繁先生の指導の下、30数枚の大きな陶板の作品が出来上がりました。全部は飾れないため、ビルの中にはその約半分が飾られています。飾れなかった半分は生活団の玄関に飾られています。
・・・またの機会に再度紹介しますので、次の「教会」へ急ぎます。
◆日本基督教団「浪花教会」
541-0043大阪市中央区高麗橋2-6-2/06-6231-4951
http://www.eonet.ne.jp/~naniwa-church/
浪花教会は、1877年に設立されたプロテスタント(新教)の教会のひとつです。現在は1941年に合同した「日本基督教団」に属しています。日本基督教団と関係する学校は関西では、同志社、同志社女子、関西学院、神戸女学院、大阪女学院、梅花学園、清教学園などです。
1877年1月20日に松村診療所で澤山保羅と11人の信徒が浪花公会を設立しました。その当時は教会ではなく、公会という言葉が用いられていました。当日、新島襄牧師などが出席し、日本で最初の按手礼(牧師になる儀式)が澤山保羅に対して行われました。初代牧師の澤山保羅(幼名:馬之進)は、1852年に長州吉敷(現・山口市吉敷)に生まれました。英語を学ぶために神戸に出てきて、宣教師のダニエル・クロスビー・グリーン(DCグリーン)と出会います。1872年にアメリカのイリノイ州にあるノースウエスタン大学予科に留学し、パッカード牧師に神学を学び、11月、エバンストン第一組合教会で洗礼を受けキリスト者としての歩みを始めました。1876年に帰国し、松村診療所で通訳として働きながら、キリスト教伝道の準備をしました。そして、海外からの援助を受けずに、日本で最初の「自給」教会が誕生しました。教会設立の翌年1878年、成瀬仁蔵らと梅花女学校を設立しました。梅本町公会と浪花公会の信徒の支えによって出来た学校ですので、「梅花」という名前になりました。教会も学校も、海外の教会からの援助なしに、教会の信徒によって建てあげる、ということに重きが置かれました。現在もその精神は受け継がれています。その他、1879年には、天満教会、その後も大和郡山教会、岸和田教会、また大阪YMCA(大阪基督教青年会)の前身である浪花基督教青年会、日本伝道会社の設立に情熱を傾けましたが、1887年3月27日に肺結核のために34歳の生涯を閉じました。葬儀は土佐堀の大阪基督教青年会館で行われ、DCグリーンと新島襄が告別の説教を行いました。日本基督教団が設立される(1941年)よりも前から、日本組合教会浪花教会は存在しており、会衆主義、組合教会の伝統を持っています。特徴は、牧師がリーダーシップを発揮することよりも、教会員・信徒が中心に教会を立てあげることです。現在の建物は、1930年に近江兄弟社の創立者で、★アメリカ人建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズが指導し、竹中工務店が設計施工したものです。ステンドグラスを通して柔らかな光あふれる礼拝堂です。
★近代建築の工事記録では最古級、浪花教会の建築映像発見/2008年12月
日本で最初の按手礼を受けた牧師として知られる沢山保羅牧師が1877年(明治10年)に設立した日本基督教団浪花教会(当時・浪花公会、大阪市中央区)の78年前の建築風景を収めた8ミリフィルムがこのほど発見された。1930年(昭和5年)に撮影された映像は、近代建築の工事記録としては最古級のものだという。読売新聞が伝えた。同紙によれば、9分40秒のフィルムには、当時としては最新の滑車を用いてコンクリートを運び上げる工法や、和服姿で式典に出席する人々の様子、聖書や名簿を建物に納めた後に定礎石を披露する場面などが収められているという。大阪の都心部を成す「船場」地域の当時の様子などもわかり、専門家は貴重な映像だとしている。同教会は、1872年(明治5年)に渡米し、ノースウェスタン大学で神学を学んだ沢山牧師が帰国後、浪花診療所内に設立した教会。沢山牧師は自身も診療所で働くことで自給での教会運営を目指したほか、伝道活動を行う一方で女子教育にも熱心であった。教会設立翌年の1878年(明治11年)には、同郷の後輩で日本女子大の創設者である成瀬仁蔵の協力を得るなどして浪花女学校(現在・梅花学園)を設立するなどしている。現在の教会堂は、米国人建築家で、信徒伝道者として著名な★ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計指導で、竹中工務店(大阪市)が設計・施工した。今回発見されたフィルムには、その建築の様子が収められている。
・・・ぜひ見てみたい映像ですね。


