★野中古墳発掘の映像、阪大で発見/64年に甲冑大量出土
1964年に大量の鉄製甲冑が出土した野中古墳(大阪府藤井寺市)の発掘の様子を撮影したカラー8ミリフィルムが見つかったと、大阪大が2012/12/22に発表した。同古墳は世界遺産登録を目指す「百舌鳥・古市古墳群」の一つで、国史跡。百舌鳥・古市古墳群には87基の古墳があるが、宮内庁管理の陵墓などが多く、全面的に発掘されたのは野中古墳を含め3基だけという。2009年に文学研究科の収蔵室から2巻が見つかり、映像をデジタル化したところ、昭和39年3~7月に学生らが発掘する様子や遺物を取り上げる場面など約21分間撮影されていた。全体のうち15分間分を、同研究室のホームページ(HP)で公開している。野中古墳は5世紀半ばに造られた1辺37メートルの方墳。64年、大阪大が発掘。鉄製の甲冑や武器、陶質土器など朝鮮半島南部との交流を物語る多数の副葬品が出土した。遺跡調査のカラー映像としては最初期のもので、福永伸哉教授は「当時の発掘映像は珍しいだけでなく、出土状況も詳しく分かり貴重だ」としている。阪大によると、確認されているカラーの発掘映像は、昭和36年の三殿台遺跡(横浜市)が最古という。
・・・こんなニュースが以前にあり、
★大阪大学総合学術博物館 第17回企画展 野中古墳と「倭の五王」の時代
会期2014年2月1日(土)~3月22日(土)大阪大学総合学術博物館・待兼山修学館
大阪大学の発掘調査により野中古墳から出土した11領の甲冑一堂に初公開
1964年に大阪大学文学部により発掘調査された大阪府藤井寺市の野中古墳は、国の「世界遺産暫定リスト」にも記載された古市古墳群のなかでも、出土資料が質・量ともにもっとも充実した古墳です。とくに、11領が出土した鉄製甲冑は、わが国でも屈指の出土量を誇ります。そのうちの3領の襟付短甲は、全国で10ヶ所も出土しておらず、胄に付けられた三尾鉄という装飾品も、金銅が用いられたものは類例がありません。このように、野中古墳の出土品は学術的価値の高いものがそろっています。そのため、「倭の五王」《中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与えるという貿易(朝貢)があった。中国の歴史書に記述のある倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいうが、倭の五王が誰の天皇であるかに関しては諸説ある》が活躍した5世紀、古墳時代中期を代表する資料として評価されています。このたび、同古墳から出土した甲冑類について、文化庁の補助金などにより新たに保存修復作業を行うことができたことから、これらの修復の成果を一堂に会して初披露いたします。あわせて、大阪大学が調査を行ってきた河内周辺での古墳調査の出土品なども陳列し、謎の多い「倭の五王」の時代の解明に向けた取り組みについて展覧したいと思います。
・・・ということなので、ぜひ見に行かねばと思っていたのです。
・・・ましてや「野中古墳」は私の住んでいるところに近く、もちろん古墳巡りで行ったところでもあります。
・・・豊中への途中、吹田に立ち寄りました。
◆紫金山公園◆
この公園には、国の史跡「吉志部瓦窯跡」ほか、歴史的な資産が存在しています。また、かつて満開のツツジが山を赤紫色に染めた様子が名前の由来とされる「紫金山」を後世に残そうと、市民による里山保全活動が行われている場所でもあります。古くから岸部の田畑を潤していた釈迦が池も含め、歴史、自然をテーマとした整備計画「風土記の丘・紫金山公園基本計画」が市民参画により策定された総合公園です。
●吹田34号須恵器釜跡
これは吹田市五月が丘西にありましたが、昭和56年(1981年)に佐井寺東土地区画整理事業に伴う発掘調査が行われた後、移設されました。この釜跡では7世紀初めに須恵器という硬質の焼物が1000度以上の高温で焼かれていました。当時はこの千里丘陵の粘土を資源とした大規模な窯業地帯であったようです。
●吉志部瓦窯跡
ここでは延暦13年(794年)に新たに都が移された平安宮の瓦を生産していました。発掘調査の結果、平安宮造営当初の瓦生産の実態を示す重要な遺跡として昭和46年(1971年)に国の史跡に指定されました。
◆吉志部神社◆
564-0001吹田市岸部北4-18-1/ 06-6388-5735
紫金山に鎮座し、遥か古代より鎮守の社として村の人々に崇敬されてまいりました。社伝によりますと、崇神天皇の時代に大和から奉遷して大神宮と称し、極めて壮麗な社殿を構えていたといいます。その後、応仁の乱で焼失しましたが、文明元(1469)年には再建、さらに慶長15(1610)年には本格的な再造営をいたしました。本殿は、全国的にも大変めずらしい七間社で、桃山様式の絢爛たる紋様が施された華麗な社殿でした。その歴史的な価値の高さから国の重要文化財※に指定されていましたが、本殿建立から400年を目前にした平成20(2008)年、不審火により全焼いたしました。幾度も災禍に見舞われ、その都度、再建を果たしてきた吉志部神社ですが、この度の不幸も氏子の皆さま、地域の皆さまのご努力とご支援を賜り、迅速な工事を進めることができ、平成23(2011)年5月22日、本殿および覆屋、拝殿を竣工いたしました。新たに建てられた本殿は、保存されていた資料と半年以上を費やした火災跡の調査を基に正確に復元したもので、400余年前の建立当時の建築様式はもとより鮮やかな装飾が蘇りました。焼失によって、平成20(2008)年9月8日に重要文化財の指定は解除されました。
※2008年5月23日午前4時15分ごろ、大阪府吹田市岸部北4丁目、吉志部神社の本殿から火が出ているのを近所の人が見つけて119番した。火は約30分後に消し止められたが、国の重要文化財に指定されている木造平屋の本殿を全焼した。けが人はなかった。吹田署の調べでは、出火当時、本殿は無人だったとみられる。出火原因の特定を進める。本殿は1993年に重文に指定されていた。
・・・地元の方々の協力で再建できたわけですが、落書き・盗難・放火などの人災は、とても悲しいことです。このブログ「ミュージアム」記事や情報を通して、さらなる芸術文化への理解を広げ深めていきたいと、あらためて思っています。




