辺見庸(2)
■辺見庸さん、石巻に寄付/中原中也賞の賞金
今年の中原中也賞に選ばれた作家辺見庸さん(66)が3月18日、東日本大震災で被害を受けた出身地の宮城県石巻市に、同賞の賞金100万円を寄付されました。市の行方不明者は約1万人とみられ、辺見さんは「友人や恩師がほとんど行方不明で、晴れ晴れと式に臨むことができない」として、4月29日の授賞式は欠席されました。
■石巻市出身の芥川賞作家、詩人・辺見庸さん
辺見康さんは、しばらく「水の透視画法」と題するシリーズを河北新報朝刊の文化欄に時々書いておられました。極めて個性的な鋭い随想で、2010年12月14日の文章は次のように始まっています。
・・・黒っぽい「なにか」がやってくるとずっとおもっていた。それはどこからかひたひたと近づいてきて、それまで伏せていたからだをある日にわかに後ろ足でぐわっと立ちあげ、両の手を宙におもいきりひろげておぞましい姿をあらわすであろう。そんな予感とともに生きてきた。しかし、そもそも「なにか」がなんなのか、はっきりと突きとめたことは一度もない。なのに「なにか」がやってくるという気分は毎年とぎれることなくつづいた。
辺見庸さんの友人の友人の・・・から巡ってきた辺見さんご本人のメッセージ、「お身内、お仲間にお知らせいただければうれしいです」とありましたので、そのメッセージをご紹介しましょう。
友人のみなさん
ごぶさたすみません。その後、お元気でしょうか?
こちら、犬とふたりでなんとかやっております。震災後はもっぱら詩ばかり書いておりました。久しぶりにテレビにでますので、新作詩篇のこととあわせご案内申し上げます。
・「こころの時代」辺見庸が語る大震災~瓦礫のなかから言葉をひろって~
・2011年4月24日(日曜)朝5時から6時まで(!)NHK教育テレビ。
・再放送は4月30日(土曜)13時から14時。
・デジタル教育2でも4月25日(月曜)14時から再放送の予定。
・収録は3月26日でした。番組中に、詩集『生首』および大震災を視界にすえた新作詩篇『眼の海~わたしの死者たちに』から数作品が抜粋、朗読されます。
・書き下ろしの『眼の海~わたしの死者たちに』約76枚は、5月7日発売の『文學界』6月号に一括掲載される予定です。現在進行形のことがらですので、おもいを濾過できず、苦しみました。作品性は疑問ですが現時点では精いっぱい。
・超低視聴率の「こころの時代」と『文學界』6月号の件、お身内、お仲間にお知らせ いただければうれしいです。
それでは、また連絡させてください。こころしずやかにいられますように。
■「こころの時代、瓦礫の中から言葉を~作家・辺見庸~」
昨年から詩人としても活躍している辺見さんは、今回の「故郷喪失」と「死」に向き合い、震災直後から詩作を続けておられます。今回の番組で語られた内容は・・・
それは、「瓦礫の中に落ちている、我々が浪費した言葉たちのかけら」を「もう一度、ていねいに、抱きしめるように」組み立ててゆくこと。
それは、「どこか空しい集団的鼓舞を語るのではない。日本人の精神というふうな言葉だけ を振り回すのではない」ため。
震災直後から民放ではCMが消 え、「人にやさしくしよう、みたいなキャッチフレーズが気が狂わんばかりに流されてゆく。今度はやさしさを押し売りして来る」ことへの抵抗のため。
「問われているのは、国でもなければ民族でもない。今、真価が問われているのは明らかに、疑いもなく個人」であることを伝えるため。
絶望の淵から、アドルノの「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という警句や、カミュ「ペスト」に登場する医師ベルナール・リウーが語る伝染病 ペストに立ち向かう唯一の方法としての「誠実さ」―などを参照・引用しながら、自らを語ることを通じ、私たち個人個人に何が求められているかを問うてゆきます。
震災直後から現在までの、そして、従来もあったNHKを 含むメディアの「伝え方」「描き方」への辛辣な批判も。
その視点の「根」には、この震災をどう受け止めるかで、「危ない事象が今、芽を出し始めて」いるという・・・認識。
■「水の透視画法」辺見庸
作家・辺見庸さんが、病魔と闘いながら、個のかぎりない自由のあかしとして書き綴った、未来への予感がひそむ珠玉の作品群。日常の何気ない風景の中にかすかな兆しを感じとり、静謐で色彩感溢れる文章で現代社会と人間の根源的問題を省察する。心にさしこむ言葉の数々は著者の世界観、思考の全貌をうかがわせる。日常に兆すかすかな気配を感じて、作家は歩き、かんがえつづける。突然の大地震と大津波、眼にしたことがないそら恐ろしい光景。それは結末ではなく、新たなはじまりなのか。ことばから見はなされた現代世界を根源から省察する珠玉の作品群。本書は、共同通信が2008年3月から2011年3月まで、全国の加盟新聞社に月2回配信した連載企画「水の透視画法」にもとづき、書き下ろしの「予感と結末」など3編を追加収録し単行本化。
■「たんば色の覚書」辺見庸
硫酸銅を胆礬と呼ぶらしい。硫酸銅の青、真っ青な青、それが胆礬色。たんばん色が転じてたんば色となった。辺見庸さんは、アフガンの空の色だと言う。なにげない日常の裂け目から、ふと見た眺めとは?!短編小説、詩、エッセイ、論考・・・書き下ろし全8篇がひらいた、かつて見たこともない風景。
■辺見庸さんが「自動起床装置」で芥川賞を受賞したのが、平成3年。辺見さんは共同通信社に勤務していたジャーナリストである。そしてこの「自動起床装置」は、通信社を舞台として描かれた作品だ。この作品では「眠り」を様々な角度から捉えている。特に、人間の眠りを生命の神秘と捉えるような趣きがある。それを読み手に意識させるように、準主役である聡の口を借りて、眠りを数々の植物になぞらえて表現している。作品を読んでいる時は、この植物に関する記述が幾分わざとらしく感じられるが、動物ではなく植物になぞらえている点が面白い。植物は目にはっきりと分かるような動きは見せないものの、それ自体が生命を持っていることに変わりはない。つまり動きを見せないだけに、植物がなんらかの生命の営みを行っていることを改めて示すことで、生命の神秘が読み手によりミステリアスに伝わってくる。この作品のもう一つのテーマが、文明批判である。この作品は、通信社を舞台としているにも係わらず、デスクやパソコンや書類の山といった、通信社らしいシーンが全く描かれていない。「シャリシャリ、シャシャー。シャリシャリ、シャシャー。」という音だけで、通信社の仕事の様子を描いている。この音は、人間文明のメタファーである。それが、眠りという生命の神秘よりも、いっそう不気味に読み手に迫ってくるように描かれている。なぜ人間は目覚ましなどを使って強制的に起きるようにしなければならないのか?それはもちろん、職場や学校の始業時刻に間に合うようにするためである。ではなぜ始業時刻なるものが存在するのだろうか?それは抽象的に言うなら、多くの人間を一つの大きな流れに乗せることによって、確実かつ効率的に社会の営みに従事させるためである。それが文明社会というものなのである。これを聡は敏感に感じ取って、人間を眠りから強制的に起こそうとすることに、人間疎外を見出している。人間が一個の生物として自然に生きていくことを妨げようとする、文明という得体の知れないものに恐怖を感じている。人間が快適な生活を求めて文明を作り上げていった一方、その文明に沿った生活のために人間が疎外されるというのは、冷静に考えてみれば滑稽な構図である。なぜ人間は文明を生み出すようになったのだろう?なぜ人間は類人猿の姿のまま今日に到らなかったのだろう?そう思えば思うほどに、「シャリシャリ、シャシャー。シャリシャリ、シャシャー。」と暗闇に響く文明の音が、よけいに不気味に思えてくる。
■JR御用達あの自動起床装置「おこし太郎」一般販売
JR東日本のWebサイト「えきねっと」は2004年7月23日、自動起床装置「おこし太郎」のネット販売を始めた。運転士が使っている超強力目覚ましとしてTVで紹介されたのがきっかけだ。価格は9万8000円。送風機と空気枕などがセットになっている。敷き布団の下に空気枕を敷いておき、設定時間になると収縮を繰り返しながら膨らみ始め、最後には上半身が弓なりに。こうなるとどうしても目が覚めてしまうという強力な装置だ。時間厳守が絶対の運転士向けに、JR東日本の現業機関70以上で使用実績がある。
■写真というものからあふれでる写真/マリオ・ジャコメッリ展
風景写真、スナップ、芸術写真。さまざまな写真があるが、マリオ・ジャコメッリ(1925~2000)の写真に、決まった呼称を与えるのは難しい。どこまでも、えたいが知れないのだ。イタリア東海岸の小さな街に生まれ、生涯そこを動かず、印刷業を営み土日だけ写真を撮ったという。欧米での評価は高いが、日本での本格的紹介は、白黒約150点による今回が初めてらしい。で、分からないなりに作品を見ていくと、被写体が描く造形的な反復や呼応が重視されていることに気づく。連作「スカンノ」(57~59年)からの1枚なら、相似形のように配された黒いシルエットの人々が目をひく。風景やホスピスの人々を撮っても、同じ傾向が見える。だがそれを強調するなら、モダニズム系のスタイリッシュな表現もある。
ジャコメッリは、しかし極端にコントラストの強い、粒子の粗い画面を見せる。ときにブレたり、多重露光にしたり。「スカンノ」の1枚の中央に霊魂のように浮かぶ少年の姿は異様だが、作者の心象風景、いや自身なのでは、とも思わせる。極めて抽象的に見える瞬間があれば、悲しみを秘めた叙情性もたたえる。一方で、連作「若き司祭たち」(61~63年)からの1枚では、舞う雪の中で踊る若い司祭たちが奇跡的なほど楽しげで、広がるマントの造形美に若さがあふれる。でも、やはりどこかはかない。写真は19世紀の誕生以来、瞬間を客観的に記録する力で席巻してきた。しかしジャコメッリはそこからあふれ出るものを表現しようとしたのではないか。心象であり、死に至る時間であり。彼の写真が「世界」や「人生」のどこかにつながる窓に見えるとき、心をわしづかみにされる。それでも全体はやはり、えたいが知れない。いや、簡単にえたいが知れるような写真を残さなかったことにこそ、すごみがある。
・・・辺見庸、そしてジャコメッリ。読書もしたいし、展覧会にも行きたいし、やること考えることがいっぱい。復興支援にしても、とにもかくにも、やれることを一つずつ具体的にやること、それしかない。




