大和棟(10)
「大和」と「大坂」を結ぶ古道、竹内峠・穴虫峠・田尻峠などを越えて・・・
■奈良県香芝市「穴虫集落」
二上山の南が竹内峠なら、北は穴虫峠である。竹内街道同様、大和と堺とをつなぐ穴虫峠沿いに穴虫集落がある。昔、古墳などを造営に携わっていた「穴師」と呼ばれる人たちが暮らしていた地域らしく、穴虫という名が残ったという説や、穴に伏す低地という地形からという説もあります。古くは大坂と呼ばれていたと考えられています。
近辺には、大和と大阪を結ぶ峠道に置かれた関所であったことから「関屋」、江戸前期に関屋村から分村し、大和の田の尻から開墾地の終わりの場所を意味する「田尻」があります。
●穴師について
・穴師、鉄穴師。アナシは職業病として目だけでなく、タタラを踏むために足も痛める、そのため痛背とか痛足、病足とも書かれるし、場所によっては穴石とも書かれる。
・穴師とは砂鉄を採集・精製する技術者のことで、この地に精錬所や住居があったのであろう。
・古代渡来人の技術者集団「穴師」。製鉄技術・土木建築技術・を持つ渡来人集団が鉄・銅などを採掘するため穴を掘った。砂鉄を得、選別するのに川へ入った。穴師一族は、別の名を兵主部といい、その技術を買われて古代大和政権時代に大活躍した。
・穴師とは痛足であり、また掘削の穴に通ずるのである。
・『穴師』とは、北西の風(アナゼ)から変化した言葉であります。銅や鉄を採り、鏡や刀剣を作る氏族と伝えられており、銅や鉄を精錬する高い火熱をおこすには強い風が必要なので、古の人々は風神である級長津彦・級長津姫神を祭神とした。
様々な説があり、どれが正しいのかはわからない。しかし、二上山周辺はサヌカイトをはじめとする岩石や鉱石の産地であったことは事実であり、渡来人をはじめとする様々な技術者や職人が活躍したに違いない。
■司馬遼太郎
司馬さんの母の実家が竹内にあったため、氏は幼少期を竹内集落や長尾集落で過ごされ、田圃でヤジリやダキをひろいながら、日本の国が生まれる頃の神話の時代に思いを馳せた経験がおありです。司馬さんは、この竹内街道をシルクロードと呼んでおられます。旧當麻町は、氏の原風景であったといっても過言ではないかもしれません。「長尾から竹内にのぼる坂が実に印象的であった」昭和61年、旧當麻町で行われた講演会で、氏はそう語っておられます。
堺の百舌鳥古墳群から古市古墳群を東西に貫き、王家の谷を通過して河内と大和をさえぎる峠、竹内峠を越えて葛城の長尾神社に通じる。この竹内峠は北に二上山、南に葛城山、そして金剛山に連なる山を越える。常識では竹内街道はこのルートで終わりですが、司馬さんは、大和高田から畝傍を経由して東に一直線に延びて桜井まで延ばし、磐余の桜井から北に折れ曲がり三輪山山麓を通過し石上神宮に到着する道までを竹内街道と呼んでおられます。司馬さんは、もし街道も文化遺産に出来るなら特に竹内峠から大和高田に通じる部分だけでも国宝にしてはどうかと提案されています。
著書『街道をゆく』の「竹内越」の章で、氏は旧當麻町の景色の美しさについて言及しています。二上山とその頂に落ちる夕陽、樹叢にうもれてかすかにうかがえる當麻寺などを長尾から眺める風景は、「大和で一番うつくしい」と表現しています。
「もしも文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾-竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう。葛城をあおぐ場所は、長尾村の北端であることがのぞましい。それも田のあぜから望まれよ。視界の左手に葛城山が大きく脊梁を隆起させ、そのむこうの河内金剛山がわずかに頂上だけを、大和葛城山の稜線の上にのぞかせている。正面の鞍部が竹内峠であり、右手は葛城山の稜線がひくくなって、大舞台の右袖をひきたてさせるように、二上山が、雌岳を左に雄岳を右になだらかに隆起させ、そして大和盆地からみれば夕陽はこの山に落ちる。」
「もしも後に、私の仕事で残るものがあるとするならば、それは『街道をゆく』かも知れない。」
作家・司馬遼太郎は生前、そう語ったことがあったという。「日本民族はどこから来たのだろう」。司馬遼太郎の25年の壮大な思索紀行「街道をゆく」は、この問いから始まった。その答えを求めて、司馬は、近江琵琶湖畔の道から韓国へ渡った。だが、司馬の前には、過去の歴史のわだかまりが立ちふさがっていた・・・。






