大和棟(5)
■竹内街道
日本書紀に記録された、わが国最古の国道ともいえる「大道」は難波津から堺、太子町を通って二上山・竹内峠を越え飛鳥の都に至る。この街道を通じてすぐれた大陸文化が都にもたらされたが、このルートと大部分が重なるのが竹内街道である。中世末期には、自治都市として栄えた堺と大和を結ぶ経済の道、江戸時代には西国巡礼や伊勢詣など宗教の道としても栄えた。
竹内街道沿いこそ、大和棟の宝庫である。
羽曳野市には、紹介した「吉村家」だけでなく・・・
■羽曳野市島泉「松村家」
大規模な茅葺の民家で落棟と下屋を本瓦葺とする。主体部は桁行11間、梁行5間半規模で、東方を土間、西方床上部を4室とし、南西8畳の正面に式台を設ける。主体部の西には8畳と6畳の数寄屋風の奥座敷が取り付く。河内の大和棟の庄屋屋敷の遺構として貴重。
そして、私の住む「古市」を通って・・・
古市で忘れてならないのが・・・
■銀屋(ぎんや)
石川を行き来する剣先船で大阪と結ばれる江戸時代の古市は、交通、流通の要地として天領になっていました。剣先船の船主・船頭や河内木綿の商人たちが住み、旅籠も多く、大変賑やかな町であった。また、難波から大和へ至る「竹内街道」と京都から高野山を結ぶ「東高野街道」が交わるところであった。このように交通・経済の中心地として栄えた古市に、両替商「銀屋」は欠かせないものであった。往時の繁栄ぶりは、その邸宅の構えをみても偲ぶことができる。寛政11年(1799)の屋敷絵図が残り、18世紀中ごろの建築と推定されます。当時は珍しい総瓦葺きで、南側の壁に張られている板は、当時、石川を行き来していた剣先船の廃材を再利用した珍しいもので、商いの知恵が光っている。各藩の藩札の交換などをする両替商であったとの言い伝えがあり、古市のにぎわいをしのばせる建物の一つでしたが、現在は残っていません。
「銀屋」の末裔は東京におられるとか・・・この歴史的建造物を残すことができなかったのはとても残念なことだが、当事者としたら維持管理は並大抵のことではない。個人の力ではどうしようもないことなのだ。





