大和棟(4)
■大橋富夫
建築写真家(日本写真家協会・建築写真家協会会員)。略歴:1932年三重県四日市市生れ。1951年県立四日市商業高等学校卒業後、写真館を営む兄の周辺で写真修業。1960年上京、建築写真家として彰国社の月刊誌『建築文化』などを中心に活動を開始。以来50年にわたって現代建築の撮影に携わり、この世界で第一人者の地歩を築いてきた。近時は、中国の集落や民家の撮影にも力を注いでおられる。
■大阪府堺市南区豊田「小谷城郷土館」
地元の郷土史家・小谷方明(1909年~1991年)が堺近辺で収集した各種農具や武家道具等の歴史的資料を幅広く公開する目的で設立された博物館である。小谷城は、当地にある堺市内最古の山城の一つである。小谷家は鎌倉時代から続く家柄で、主屋を中心とする館内には、伝来の各種農具や武家道具等を中心とした郷土の歴史資料を幅広く保管収集し、展示を行っています。敷地内には江戸時代に建築された主屋や蔵の他、廃藩置県時に伯太藩から拝領されたと伝えられる門長屋が建ち並び、泉北丘陵を代表する歴史的景観のひとつとなっています。
■奈良県橿原市新賀町「森村家」
耳成山の西に開けた旧環濠(かんごう)集落にある大庄屋で、大名などを迎えるときに用いた上段の間を備える大規模な住宅。江戸時代には、当時の新賀村の庄屋と、新賀組の大庄屋を兼ね務めた。新賀組は、寛文12(1672)年には10市郡13カ村から成り立っていた。平成10年7月1日から建物の保存修理を行っていた同住宅は平成17年12月に完成。修理は主屋と内蔵、別座敷が半解体修理。表門や東米蔵・西米蔵、納屋、表門西土塀、表門主屋間土塀がいずれも解体修理となった。この7棟の建物と土地は、奈良盆地の大庄屋の屋敷構えを伝える遺構として、平成元年9月に重要文化財に指定された。県内最大級の民家といわれる同住宅を見ると、表門は間口の大きな長屋門で屋根の片側が高塀造りという例の少ない形。西側に共部屋をもつ。主屋は享保17(1732)年の建築願書が残るので、そのころの建築と推定される。3室3列の9間取りと大きく、これも高塀造りで大和棟の立派な民家。座敷部分と釜屋が庇状になっているため、大和棟の初期の姿とみられている。主屋西に接する内蔵の建築年代は、17世紀にさかのぼると考えられる古いもの。外壁の下端は地面まで下げずに床位置までとして、通気性を良くしている。また、床は床板に土壁を塗ったうえ板床で仕上げている。入り口の扉は厚く重い。段の間となる別座敷は公家屋敷を移築したと伝えられてきた建物。平成の修理で長押から、この事実を示す天保14(1843)年の墨書が発見された。長押の釘隠など、各所に公家の好みが認められ、大床を持つ8畳や、この上手で床、棚、書院を備えた座敷、北隣の休息の間、西の湯殿、南には縁側が備えられる。上質の材を選んで用い、仕事も優れた貴重な建物だ。内部は湯殿も残り当時の面影をよくとどめている。主屋北側の環濠沿いに東西に並ぶ米蔵は規模が大きい。敷地東側には南北に納屋が並ぶ。広い敷地に点在する建物群から隆盛を極めた大庄屋の生活がうかがえる。
■松原市天美我堂「西川家」
江戸時代の天美我堂は、現在の天美我堂7丁目の善正寺の東側を流れる水路(今は暗渠となり、道路が走る)によって、東側が東我堂村、西側が西我堂村に分かれていました。明治8年(1875)、両村は合併して我堂村となりましたが、西我堂村の庄屋をつとめていたのが西川家でした。江戸時代には、今の大字にあたる各村ごとに庄屋が任命されていて、お上の命令を伝えたり、下の願い事をとりついだり、年貢米の取り立てなどを行っていました。封建政治の下部機関として大切な役でしたので、家柄のよい富裕な家がその役を持たされました。善正寺の北側に、広大な屋敷地を構える西川宏さん宅は、市域で現存最古の民家として知られています。松原市史編さん室は、昭和52年と53年にわたって、市内で100年以上経ていると推定される約100棟の民家の悉皆調査を行いました。 西川家は、過去に大阪府によって調査されていましたが、その主家は江戸時代初期の17世紀中頃以前という古い時期に建てられたことが、あらためて確認されました。大和や河内地方の富裕な農家では、大和棟といって主屋に茅葺の急勾配の大屋根をあげ、その両端に登り高塀をあげて、その上に瓦をのせたのですが、西川家もその好例です。もっとも、古い家ほど何度も改造されたり、改築されたりして、築造当初の原形がかなりくずされています。西川家でも、土間の下手は後補材です。しかし、居室部分は築造時の部材がよく残っており、仏間が独立した五間取り住宅として、非常に古い形式を示しています。特に、納戸(物置)の入口には、敷居を一段高くして、またいで入る「踏み込み」があったり、あるいは、居室の外側の柱が一間ごとに並んで、それぞれ両袖に片壁を持ち、その裏に板戸と明り障子を引き入れるという河内の民家でも最古の手法が用いられています。また、屋敷の裏(北側)には、橋が架けられた幅8メートルほどの周濠が見られますが、これは屋敷の南側にあった前ヶ池(埋め立てられ、松原第五中学校や天美我堂公民館となる)や東西の水路に囲まれた環濠集落のなごりでしょう。西川家は、吉村家と時期的にも近く、そのうえ、間取りもきわめて類似した所が多くあります。むしろ、居室部分は吉村家よりもよく残っているとさえいわれています。
■奈良県香芝市「大倉本家」
明治29年(1896年) 大倉勝治商店として創業。以来、吟醸酒には「速醸酒母」も用いますが、それ以外は普通酒に至るまですべて山廃酒母で仕込んでいます。昭和3年頃より奈良県神社庁の委託を受け「御神酒」造りが始まりました。戦時中 原料米を入手するのが困難な状況においても、品質第一のお酒のご提供をさせて頂き、戦後 2代目勝治のもと販路を拡大させて頂けたと聞いております。





