イサムのランドスケープ【landscape】2
■1951(昭和26)年暮れ頃より4年間ほど、魯山人邸内の一角に移築された古い農家を借りて、妻山口淑子と暮らした(1955年離婚)。
(参考)昭和30年代、山崎小学校建設のため切通南側が削られる。平成になり、切通北側の半分以上がマンション建設によって無惨にも削り取られてしまった。現在、鎌倉市立山崎小学校となっている。
昭和40(1965)年には、魯山人がアトリエとして使っていた建物が、『笠間日動美術館』の分館である「春風萬里荘 」として、茨城県笠間市下市毛芸術の村に移築された。平成10(1988)年に、山崎の敷地内の建物が焼失してしまった。
■広島・平和大橋(1952)
■ニューヨークのロング・アイランド・シティにアトリエを構える(1961)
■チェイス・マンハッタン銀行「沈床園サンクス・ガーデン」(1964)
■「Red Cubeレッド・キューブ」(1968)
街角アートの中でも古く、NY証券取引所の近く、Liberty St.とCendar St.の間、ブロードウェー沿いにあります。
(参考)『イサム・ノグチー宿命の越境者』の著者、ドウス昌代さんが、40年以上も前にニューヨークでレッド・キューブに出会ってから、約6年もの歳月をかけて本を書かれたそうです。イサムさんの「ぼくには生まれたときからfamilyというものがなかった」という言葉にはじまり、日本とアメリカの、また彫刻という美術の分野の、イサム・ノグチはまさしく「越境者」であると感じられたと語っておられました。





