ドロー魚イング(13)
「観音像のある追分風景」・・・立原道造
■立原道造1914―1939
1914(大 3)東京市日本橋区橘町に生まれる。1927(昭 2)東京府立第三中学校入学。以後卒業まで多彩な活動を展開し、殊にパステル画では抜群の才能を発揮する。1924(大13)国漢教師の橘宗利について作歌を始め、北原白秋を訪問し、口語自由律短歌を『学友会誌』に発表する。自選の歌集『葛飾集』『両国閑吟集』、詩集『水晶簾』をノートにまとめる。1931(昭 6)第一高等学校理科甲類入学。一高短歌会会員となり、前田夕暮主宰の『詩歌』に連続して投稿する。物語「あひみてののちの」が『校友会雑誌』に掲載され、一高文壇の寵児となる。秋、堀辰雄の面識を得、以後兄事する。1932(昭 7)同人誌『こかげ』を創刊する。手づくり詩集『さふらん』を制作する。1933(昭 8)手づくり詩集『日曜日』『散歩詩集』を制作する。
「散歩詩集」・・・魚の話
1934(昭 9)東京帝国大学工学部建築学科入学。自宅の居室を屋根裏部屋に移す。同人誌『偽画』を創刊する。堀辰雄が実質的な主宰者であった『四季』[第2次]の創刊に加わり、三好達治、丸山薫、津村信夫とともに編集同人となる。第2号に組詩「村ぐらし」を発表し、詩壇に初登場する。1935(昭10)課題設計「小住宅」により辰野賞を受賞。以後卒業まで、3年連続して受賞する。同人誌『未成年』を創刊する。以後晩年まで、『四季』を主な舞台として、青春の憧れと悲哀を音楽性豊かな口語で謳ったソネット[14行詩]を発表し、詩人として活躍する。以後、『コギト』『作品』『新潮』『文芸』『文芸汎論』などから寄稿依頼を受け、詩や物語を発表する。1936(昭11)シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出し、山本文庫として処女出版する。卒業論文「方法論」を提出する。1937(昭12)卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」を提出する。東大卒業後、石本建築事務所に入社し、建築家として将来を嘱望される。「豊田氏山荘」を設計する。
手づくり詩集『ゆふすげびとの歌』を制作する。自装の第1詩集『萱草に寄す』、第2詩集『暁と夕の詩』を出版する。冬から翌春にかけて、独居住宅「ヒアシンスハウス[風信子荘]」を構想する。1938(昭13)「秋元邸」を設計、施工する。夏、肺尖カタルのため休職し、大森の室生犀星邸、信濃追分油屋で療養する。第3詩集『優しき歌』、同人誌『午前』を構想する。秋、盛岡市の生々洞に療養のため1か月ほど滞在する。冬、転地療養のため向かった長崎市滞在中に喀血する。1939(昭14)第1回中原中也賞受賞。見舞いに訪れた友人たちに《五月のそよ風をゼリーにして持つて来て下さい》(死の床についた道造が婚約者・水戸部アサイの耳元で囁いた言葉という説もある)と願うが、3月29日、病状急変し永眠。享年24歳。
美しい「書簡」の数々はまるで「ペン画」である。
●立原道造「アダジオ」
光あれと ねがふとき
光はここにあつた
鳥はすべてふたたび私の空にかへり
花はふたたび野にみちる
私はなほこの気層にとどまることを好む
空は澄み 雲は白く 風は聖らかだ
①「アダジオ(ADAGIO)」という言葉がどこから来たのか、正確なことは定かではありませんが、「バレエのデュエットの音楽形式がほとんどアダージオである」(デュエットの技法/ニコライセレブレンコフ著)といわれるように、音楽形式からデュエットのダンスを「アダジオ」というようになったのではないかと推察されます。
②アダージョ [(イタリア) adagio] 音楽用語。ゆるやかに演奏せよの意。ラルゴとアンダンテの間の速さ。また、そのテンポで演奏される曲。






