「奇跡」ってのはずいぶん
主観的な言葉である。
同じ「東大合格」にしても、
それを「奇跡」と言われる人もいれば、
「当たり前」だと思われる人もいる。
だけど周りがなんと言おうと、
それがめちゃくちゃ勉強した結果なら、
本人にとっては奇跡なんかじゃなく、
あくまで努力の賜物だろう。
大辞林によると、奇跡とは
「常識では理解できないような出来事」
とされているが、
別に僕は奇跡の定義に
興味があるわけではない。
ただふと、
「奇跡は神様の埋め合わせ」
と考えてみたら、
いったいどんな景色が見えるだろう、
と思っただけである。
神様がもしいるとしたら、
きっと「みんなを幸せにしたい」と
思っているんじゃないだろうか。
だが神様といえど、
手が回らないときがあるのである。
というか、いまの世界を見ると
かなりテンパっている可能性が高い。
さすがに神様も、
「いやー、こりゃまずいな」
と思っているのであろう。
ずっと手が回らず
力を貸せなかった人に対して、
大サービスで支援して
「埋め合わせ」をするのである。
それが僕たちの世界では
「奇跡」という現象として
現れているのではないだろうか。
僕はあまり詳しくないが、
キリスト教で言われる「奇跡」も、
多くの場合は「受難」の後に
訪れるものなのではないだろうか。
その構造は、僕たちのいまの社会でも
あまり変わらないような気がする。
そうだとしたら、
いま現在「受難だなぁ」と思っている人は、
意外と安心していていいのかもしれない。
そういう人はもれなく、
「奇跡予備軍」なのである。
逆に言えば、どこかで
「奇跡」を見たり聞いたりしても、
それほどうらやましがる必要もない。
なぜなら、奇跡が起こらないということは、
「すでに神様の手が回っていて
特に埋め合わせをする必要がない」
ということかもしれないからである。
この考え方については
特に検証もしていないので
正しいか正しくないかはわからないが、
そもそもそんなことはどうでもよい。
僕が興味があるのは、
そういう視点で世界を見たとき、
どんな景色が見えるのだろうか、
ということである。
そしてその視点を心から諒解できたとき、
それが自分にとっての「世界」になるのである。
なおかつ、自分の人生をかけて
「信じるに足る」と思える世界を
誰かと共有できたなら、
そんな幸運なことはない。
それこそ人類最大の
「奇跡」なのかもしれない。