昨日、友人から毎年恒例となった「○周年記念提灯」が届きました。

うちも無事七周年を迎え、八年目に突入です。

 

昔の某アニメの歌に「殴り合いや激論の末に、どうにかこうにかたどり着き、ここでもう一盛り」という歌詞があったのですが、毎年気持ち的にはそんな感じですね。もちろん子どもたちやスタッフと殴り合いや激論してるわけではありません(笑) 悪戦苦闘や試行錯誤の連続で、楽にここまで来れたわけじゃない、でもここまでの道のりに後悔はないし、ここまで来たから満足して終わりということもない、という意味で。

 

さて、今日の本題に入りましょう。


子どものちょっとした行動やその結果に一喜一憂する。これは親御さんなら当然のことでしょうし、私のような職業コーチも日々の授業の中で感じています。
「今日はあの子が逆上がりを初めてできた」
「側転の足の伸びがすごく良かった」
「前回跳べたはずの跳び箱が跳べなかった」
「今日はいつもと比べ妙に落ち着きがなかった」

などなど。仕事柄、人数にも内容にも事欠きません。

 

ただ、「職業=プロ」として子どもと接している人間は、子どものそうした成功/失敗、成長/後退、好調/不調に対し、一喜一憂するだけではいけません。それらに対し、またはそれに基づき、短期的・中期的・長期的という視点で何らかの見立てや見通しを立てなければなりません。
 

そうした見通しを立てることを怠れば、指導は計画的に行われないため場当たり的なものに、
もっと悪い言い方をすればコーチのそのときの気分次第になってしまいます。対して、計画や見通しがあれば良くも悪くもそこからズレた際になぜズレたのかを考え、それに沿ってズレた方を修正するべきなのか、それとも計画そのものを修正するべきなのかを考えることができます。

 

この考え方は二つの意味で非常に重要です。
一つは、当たり前と言えば当たり前ですが、「計画や見通しを立てることの重要性」。

計画を立てずに指導するというのは、大航海時代の帆船が海図や方位磁針を持たずに航海に出るようなものです。海図と方位磁針を持って航海計画も立てている船と、そうでない船。どちらの方が目的地に早く、確実に着くでしょうか?

 

考えるまでもないことですね。海図も計画もない船に乗ろうとする人間はいないでしょう。海図や計画がなくても地球は丸いですから、いつかは目的地に着くかもしれません。でもそれは奇跡的な偶然に頼るしかなく、まず間違いなくその奇跡が起こる前に座礁して沈没するか、遭難して水も食料も尽きて苦しい最期を迎えるだけとなるでしょう。

 

もちろん、海図や計画があっても座礁や遭難の目にあうこともあります。しかし海図や計画があればかなりの危険を事前に防ぐことができますし、航海中に自分の航路がズレてもそれを察知して修正することもできます。もし航海中にトラブルがなく計画通りにいけば、安全かつ短時間で目的地に着くことができます。


このように計画や見通しのある/なしは航海(=指導)において非常に重要ですし、それによって初めて乗客(=子ども)や乗組員(コーチ)に安全で快適な船旅(練習・指導)を与えることができます。

 

もう一つの考え方として重要なのは「計画の絶対性を信じない」ことです。「計画が重要だ」と今述べたことと逆のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、これは表裏一体です。

計画というのはあくまで「予測」に過ぎません。この世のすべての情報を把握することができない以上、どんな綿密な計画であってもそれは不完全な「予測」に過ぎず、人間は神になることはもちろん、ラプラスの悪魔になることもできません。

 

なので計画は常に「ズレ」が起こり得るものと考え、修正が必要になることを前提に考える必要があります。そしてこの「ズレの修正」には二つの方法があります。それは「ズレた対象に干渉して計画通りに戻す場合」と「元の計画を修正する場合」です。

 

指導で言えば、前者は指導案からズレた子どもをどうにかして指導計画の軌道に再度戻すこと。たとえば、ちょっと跳び箱の跳び方を忘れてしまった子に補助をして跳ばせ、記憶と勘を取り戻させるように。これでその子の勘が戻れば元の計画のまま指導を進めれば良いのですが、もしその子のその日の調子が悪くて勘が戻らなかったらどうするか?

 

それが後者で、その子の状態に合わせて指導案の方をその場で修正します。その子が5段→6段と進む指導案を立てたが今日は5段が跳びきれていない。それを指導案通りに無理矢理6段に進めても意味がないので、一旦指導案の方を5段→4段に修正する、というわけです。

 

これが指導においては特に重要で、「計画の絶対性を信じ」てしまっていると「跳べないのは指導案が悪いのではない→跳べないその子が悪い」という思考回路になってしまい、無理で無駄な練習を子どもに強いて、できなければ子どもを悪く言う、という最悪の無能コーチが出来上がります。これでは子どもの方はたまったものじゃありません。

 

もちろん、無計画は先に述べたように論外です。座礁、遭難、漂流確定です。だから計画を立てます。しかし計画の絶対性を疑わないのもダメです。無理矢理にでもその計画を遂行しようとして特攻、玉砕します。

 

よって、大事なのは「綿密に計画は立てるも、計画の絶対性を信じない」ことです。計画からのズレは起きて当たり前、ズレが起きたら逐次修正する、ズレの状況次第では計画そのものを修正する、ということが必要になるのです。


余談ですが、子どもの頃に学校でやらされた「夏休みの計画」。私、あれが大嫌いでした。子ども心に「こんな計画先に立てても、その通りになんていくわけないじゃん」と思ってました。
先生たちは「計画を立てること」と「計画どおりに行動すること」を求め、「計画を守りましょう」と言うだけですし、実際見られるのも「計画を守れたか/守れなかったか」だけなんですよね。


どうやれば守れるのか?守れなかったらどうするのか?そこを教えてもらった記憶はありません。なので、私は最初から「守るつもりのない夏休みの計画」を形だけ書いて提出していました(笑) でも実際、程度の差はあれ、ほとんどの子がそうなんじゃないですかね?


本当に大事なのは今回述べたように「計画どおりにいかなかった場合の修正の仕方」や「なぜ上手くいかなかったかを考え、それを次に活かすこと」なんですよね。

 

計画や見通しとは「正解」ではなく「座標」に過ぎません。しかしその「座標」があるからこそ、修正ができます。何度も言うように、計画という座標がなければ現在地も目的地もわからず遭難・漂流するだけです。しかし、座標がわかっても軌道修正の仕方を知らなければ、やはり遭難・漂流確定です。だからこそ「修正の仕方」が大事なわけです。でも学校じゃその具体的な方法はもちろんのこと、修正が大事だという認識自体、誰も教えてくれませんでしたね(苦笑)

 

最後は余談になりましたが、今回は「計画とその修正の重要性」について述べてきました。そして実は…今回はすべて「前置き」です。いや~、いつにも増して長い前置きでしたねぇ(笑)

 

今回言いたかったのはサブタイトルの通り「計画や見通しの重要性」についてなのですが、本来書きたかったのは「見通しを立てるための考え方」についてでして。まぁ、それで前置きを書いていたら、こんなに長くなって1回分になってしまったわけですが(苦笑)

 

そんなわけで、次回からは「子どもの成長とその見通しについての考え方」について、まずはオーソドックスな考え方を、その次に私流のちょっと変わった考え方について書いてみたいと思います。

 

それでは、また♪