昨夜小笠原のお父さんから、
お電話をいただき、
明日、お父さんのお誕生日だねの話もあり、
改めて私の人生の中でとっても大切な方との出会いを
約29年前に小笠原の一人旅で、
であっていたことを確認したのです。
そう、
確かお父さんの誕生日,29年前の2月6日に、
私は、はじめて小笠原丸に乗って小笠原の父島に到着したのです。
母島で、
北海道の天売島で出会った方とのご縁で
小笠原の母島でのアルバイトを紹介していただき、
全く知りあいもいない、誰一人として知らない土地へ、
バイクと一緒に渡りました。
3日間ほど、父島のユースにとまり、
父島の観光をして、そのあと、アルバイトをするため、
母島にわたり、
「つき」という居酒屋さんでアルバイトをはじめました。
泊まるところは、
ドルフィンという名前のペンションの屋根裏
(まるでハイジの住んでいた屋根裏のような感じでした)で、
19歳のバイトの先輩
(とっても19歳とは思えないしっかりしていた埼玉の彼女でした)
と一緒に色々教わりながら、生活していました。
が・・
大事件??
(今でも母島では伝説になっているらしい。と現在母島に住んでいる娘が言っていた)
があり、
私はそのバイトをやめて,帰ることにしました。
でも、待てよ!
私、京都から、はるばると小笠原の母島に来たのに、
母島の夕陽も見たことなければ、海も行ってない!
ということで、帰る前に
その頃、民宿をはじめたばかりの、ままやさんに
次の船が出るまで泊まらせてほしいと、お願いしたのです。
ままやさんを知ったのは、
船で一緒になった静岡から一人でクジラを見に来たの!と言ってた方が
ままやに泊まっていて、よい宿よ!と
紹介をうけていたのです。
(いつの間にか、私がままやを紹介してもらったお姉さんと、一緒にバイトしていた彼女を送る立場になっていました船見送りの画像)
(余談ですが、その彼女はとっても船に弱く、小笠原丸の中でも、
クジラを見に行く船の中でも酔って酔って、大変な思いをされていました)
そんなこともあって、
ままやのお父さんとお母さんにお願いして、
アルバイトをやめて帰るまで、ままやの民宿で泊まることになりました。
ままやのお母さんののお料理は絶品でした!おいしかったなあ~
(その頃、私は全くお料理ができない人でした)
(小笠原のエビ美味しかったですよ!漁師のお父さんが素潜りでとってこられました)
それからはお父さんが漁師さんだったこともあり、
お父さんの幸徳丸にのせていただき、あちらこちらと母島の海を満喫しました。
そして帰る日が近づいたころ、
お父さんから
まだ、母島にいたいなら、
居候しながら、宿が忙しい時だけ手伝ってくれたらいいから、
いたいだけ、いていいよ!
と
ありがたいお言葉をもらって、
そのまま居候としてしばらく、
ままやのヘルパーとして滞在したのです。
今から思えば、とても嫌な思いをしたはずの
大事件が
実は私の運命に、とても大きく作用した
ありがたい大事件だった!
と今は思っています。
どんな大事件だったかは
ご興味のある方は、お会いしたときにでも
楽しくお話ししたいかと思います。
犬のころの散歩は私の母島での日課でした。いつもニコニコしていた、よく働く、にこにこおばさんと子供さんの龍君です。
寒いこの時期、
小笠原に飛んでいきたい気持ちを抑えながら・・
又、いつか、できたら近いうちに、
お父さんに会いに行こう!
青い海と空に・・
レモン畑に
(このレモンの木の画像は私が母島に初めて行った頃になっていたレモンです)
カカオやマンゴーの木に、
会いに行こう!
と思うお父さん73歳の誕生日です。
お父さん、お誕生日おめでとうございます!
これからもますます元気でご活躍くださいね。
東京カカオの材料のカカオロ作ったり、
無農薬マンゴーや無農薬レモンなど
私のままやにとっても大切な果物を、息子さんと一緒に作ってらっしゃいます。
(お父さんと呼んでいますが、実は血のつながりはなく、
私にとっての第2の故郷のようなので、お父さんと呼んでいます)
そう娘にも会いに行こう!
そういえば娘は小笠原の母島の住民になっているのでした。
(なんとも呑気な母親です)
昔話と昔の画像が懐かしく思う年になってきたのでしょうか?
まあ、そういう時間を持てるのもいいかもしれないなあと思いますが、
(たぶんコロナ自粛の影響かと・・)
ちゃんとお預かりしている仕事、今日も頑張ろう!と思っています。



















