昨日の続きで、直感的に思ったこと。

 

 

私は人生を間違えてしまった。

 

 

でも、どうしよう。

もう5●年も生きてきてしまった。

年もとってしまった。

 

失った時間は、決して取り戻せない。

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、どうしよう。

取り返しのつかないことをしてしまった。

 

呆然としました。

この救いようのなさの、

奈落の底に(底はあるのか?)吸い込まれていく感じは

きっとわかろうとしない人には決してわからないものだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しばらく考えていて、疑問がふつふつと。

「どこで間違えたのか?」

「何が間違えだったのか?」

 

 

 

 

 

 

 

選択において間違えているのであれば、

それを選択する自分自身の意思決定のあり方、

人を見抜くことができなかった自分の甘さ、未熟さ、いい加減さが問題で、

同じ岐路に立ったとしても、また間違えるのではないか。

 

 

 

何が間違えだったのか=何が正解だったのか
それを思うと「正解とは何か?」

また疑わしい問いが現れてくる。

 

 

 

 

 

泣きたい気持ちだけど、

間違いだった人生も正しかった人生もなくて

実際、生きてきた(生きてきてしまった)人生だけがあるのです。

でも、それは私が「生きてきた」というよりは

「生かされてきた」人生であって

人の支えがなければ、ありえなかった。

 

 

 

 

 

 

生きられなかった、選択してこなかった人生を過小評価して、

今ある人生がよかったなんてと自分に信じ込ませて嘘をつく気は

さらさらないけれども

 

二度と得ることのできない貴重な時間をこれまでつぎ込んでしまった

この人生を「失敗」として、舵を撮り直す勇気が私にはある????

 

もし、自分が人生を間違えた失敗したと感じているのなら、それは何なのか。

 

多分、それは「自分がどう生きたい」というのがないままに

ここまで生きてきてしまったからなのかもしれない。

その「どう生きたい」というのは

あらかじめ定められた中で、ある意味「思わされている」ものじゃなくて

本当に自分が欲するものだったり、自分が感じる幸せだったり

それが基になっているものを求めているのだと思う。