介護職員の勉強していると、ちょいちょい出てくる受容の話。
私の子育ての歴史の中でもちょいちょい出会ってきた言葉でしたが、まともに向き合ったことはなかった。

親としての受容の過程。
で?
それが?
だから?
シッシと手で払う項目だった。
悩む暇があったら他にやることあるだろ?
泣いてる暇があったら出来ることあるだろ?
それがtatataの幼児期の私。

先日の授業の受容の説明が分かりやすかった。
自分が何に傷付いて、何に怒りを感じていたのか。
「耳さえ聴こえたら何もいらない」と一生に一度の願いをした私には身にしみる項目もあり、なるほどね。と「納得」した。

何回かブログにも書いているけど、ネガティヴな気持ちを認めても良いと思う。
幼児期。
私は自分の気持ちに蓋をして、とにかく競走馬並みの視野で走っていた。
私の心には圧力鍋ができてしまって、ある夜突然、土下座ポーズでおいおい泣き出した。
「私が悪いからtatataは喋らないの!?私が母親でなかったらtatataはもう喋れたの!?」
その時は、旦那のずれた声かけで冷静に戻れました。

心に圧力鍋を作ってしまう前に、受容できなくていいけど、その過程の説明に向き合ったほうが、楽になれる気がしました。