「栗」を考えてみました | 幕内秀夫の食生活日記

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「食」にかかわる諸々を綴っていきます

 ごはん、味噌汁、なすのぬか漬け、きんぴらごぼう、自家製コロッケ

 土偶の一種は「里芋」をかたどったものではないか?ここから色々なことを考えました。「十五夜」の供えるものを調べると、地方によって違うようですが・・・

 団子、そして、里芋、栗が多いことに気付きました。命を支えてきたものを供えたのだろうと思います。

 青森の三内丸山遺跡では栗がたくさんとれたことがわかっています。栗のソフトクリームも販売されています。縄文時代には直系1メートルもある栗の木があった。それは大昔の話だと思っていました。

 樹木の専門家に聞くと、「栗と言うのは強い。とくに水に強い。だから枕木に使われてきたんだよ」

 枕木の大きさを考えました。私は茨城の出身で周りにはたくさんの栗の木がありました。ほとんどが、2メートルくらいです。その大きさが普通だと思っていました。ところが枕木の大きさは、ご覧の通りです。

 直系1メールとの栗の木は縄文時代の話ではない。

 以下は私どもで実施している『小児食生活アドバイザー養成講座』を受講している静岡の歯科医のレポートの一部です。

 静岡県磐田郡水窪町大野の水元定 蔵家にはかつて広大な雑木山があり、「ヤマグリ」「シバグリ」と呼ばれる 栗の林がたくさんあった。毎年二百 日前後に隣組の人々と相談し、栗 拾いの日を決めた。多い者は一日で 四斗も拾ったが、全員で、拾った栗 を寄せ集めて、その総量の三分の一 を山地主である水元家で受け取り、残りを参加者で等分した。・・・・・

水元定蔵さん(明治二十一年生まれ)によると、この地で行なった焼畑は、一年目=稗(裏作 に麦)、二年目=、三年目=大豆・ 小豆、四年目=、五年目=大豆・ 小豆といった輪作であり、四、五年目には里芋を植えることもあったという。 そして、輪作が終るとそこへ 栗を植えたものだという。栗の木は、 世に 「桃栗三年柿八年」と言われる 通り三年たつと実が成ったのだが、 水元家では、この焼畑跡地を五十年 休閑させ、そこを五十年間栗山にし たのである。 定蔵さんによると、栗の木は五十年たつと「水舟」(水槽) を作ることができたという。(『聞き書き 静岡の食事』(農文協より)

 鉄道の枕木は栗だけではないようですが、かなり使われてきた。まさに、50年植えた木は珍しくなかったということでしょう。そのため、膨大な栗がとれた。私は栗ご飯が大好きなのですが、栗そのものを主食に準じるほど食べられてきた。三内丸山遺跡で栗の巨木を見、残念ながらソフトクリームは食べませんでしたが、「栗」の意味を深く考えることもなかった。大いに反省させられました。