今回は作業レポートではありません。
談話?的な?感じの話を紹介します。ちょっと宗教チックです(笑)。
亡くなった方の家の片付けについて、
感じる切なさや人生の儚さについてのこちらの心の持ちよう。
またその作業にあたっての適切な行動、費用見積もり。
心情だけでなく現実的に仕事としての取り扱い方などを買い取り専門業者の方と話すことがありました。
買い取り専門業者の言う「捨てたらダメなんですよ」の言葉に私がなんとも不思議なインパクトを覚えたところから話は始まります。
どうして、捨てたらダメなのか?
それは故人の物を他人が勝手に捨てるというのは「失礼」であるというのです。
業務的には「処分」と呼んではいますが、要するに捨てる準備で仕分けたり運び出したりしているわけです。
その作業自体は否定されないものの、その扱いは「物」ではなく「遺物」とされるべきだという考えです。
さすがに作業の行程で一点一点に手を合わせてというわけにはいきません。
ではどんな取り扱いが合理的なのか?
答えは買い取り業者らしく(笑)、物をよく見ながらリユース(リサイクル)出来る物をキチッと抽出するということです。
しかし、です。そもそも遺品がリユースされるのって本当に正しい事なの?っていう思いが私にはあります。業務上、買い取りは行ってますが。。
私はたまたま子供の頃に祖母から忌避するべきと教育されていました。
業者の言うには、故人が使っていた物を見れば、その個人の人生の雰囲気が分かるんだと。
そんな雰囲気を教えてくれる物はまだまだ世の中に存在する価値があるそうです。
故人が愛着を持ってたり大事にしてた物を誰かが所持、使用するということは、故人の供養になるというのです。
人は亡くなったら、たまに墓参りされるか、たまに思い出されるか、どうしても過去の存在となります。
その過去の存在という次元に人は移ったとしても、物は現存しています。
その物を、知らない誰かでも所持、使用する限り、故人を偲び続ける事につながり、亡くなった瞬間に過去の人になるところをしばらくは現世につなぎとめている、ある種の供養になるんだという考えです。
まあ合理的な供養論には聞こえます。
いや、しかし、故人の物を持つと魂、念がつく、というのが私の子供の頃に教わった忌避する理由でもあります。
拾った櫛や数珠は持ってはならないと言われたものです。怖いです。
その「怖い」と言って、畏れる(怖れる)のは人の自由だとしても、一歩進んで「対話」をするんだそうです。
故人を知っていれば心の中でその故人と対話できますし、私のような片付け業者が入手しても故人にお疲れ様でしたと、思いを込めれば良いというのです。
最終的に全く関係ない人が持っていても物は喜んでるという考え方です。
故人との対話、確かにこれは分かります。
よくアルバムをたくさん処分しますが、ちょっとだけでも私は開いて見てみます。
やはりその故人に対して挨拶というか、偲ぶことになります。
それはなんとなく行っていた事で、故人の思い出のようなものも勿体ないと感じるからなんだと思います。
うーむ、よくよく考えてみたら私の子供の頃からの考え方はとても日本的で、死を忌み嫌う文化の分かりやすい部分であって、合理性や真理性には程遠いものであるな。
遺品整理はもっと明るいイメージで出来るな!
というのがヘンテコな私の最終的な気持ちです。
業者はこうも言いました、相手(故人)を送る作業なんだから、作業見積もりなんかもあんまり安くするのは故人に失礼だからね、と。
家の経済事情は人それぞれですが、安い、というか安っぽい見積もりはダメだということなんだと思います。
総合料金のことだけではなく、予算を見て途中までしか作業を見積もらないとか、買い取りしますからと言って、買い取りありきで数字だけの見積もりはいけない、そんなところでしょうね。
私も改めて心を整理、在り方を再確認して臨んでいきたいと思いました。
現場は本当に故人の雰囲気が残ってますから、同じものは絶対にありません。
そのつど対話していく、そのためには対話するに足る人格をもたないと。
なんとなく感じてきた事の議論でしたが、誰かと言葉にするといろいろと明瞭になりましたし、責任も感じることが出来ました。