マコチンの青春記(3/4)
---ソビエトの白夜は夜の10時、11時になっても街は夕暮れの時刻のままで停止している。材木輸出の赤松の集積港である「マゴ」という地名の港、アムール河を半日も船で大河をさかのぼってたどり着く田舎町だが、上陸して小さな集落の周辺を歩くとズボンの両ポケットにまるで二丁拳銃を挿すようにウオッカの酒ビンを突っ込んで歩いているアル中の親父。この国では乗り込んでくる税関、入国管理官が自分の咽喉を親指で指し示すジェスチャーでウィスキーを要求する。水も割らず、原酒のまま咽喉に放り投げるように流し込む飲み方は真似の出来ない飲み方で味わうとか飲むというのではなくのどの奥に放り込む飲酒の方法であり、この国の男は飲んでいるか飲んでいなければ二日酔いのどちらかであった。
女は真っ白な肌のブロンド、スラリとした彫の深い美人が多かったが、それも十代までで20歳代後半になると体型が崩れてくるようだった。ソビエトでは離婚率が多く、シーメンズクラブに一人で遊びに来る女も良く見かけた。娯楽の場もなくテレビの普及も低いため我々との交流を楽しみにやって来て、安い日本製のストッキングや薬がこの国では品質の高さから大いに喜ばれた。30歳代、40歳代になるとモデルのようだったスラリとしたこの国の娘達は突如としてカボチャのような体型になる。男は何パーセントかがアル中でウオッカ以外に何の楽しみも無い国だというのがこの国の印象だった。
(シーメンズクラブに来ていたブロンドのロシア人・左端が若き日の私)
 
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---太平洋上の南シナ海、べったりとした油を浮かべたような海面に、遠くから白いしぶきを上げ黒い何かが近づいてくる。船の間際をすれ違う時そこに見たのはシャチの群れだった。親子なのか45頭のシャチが海面に巨体をうねらせながら優雅に通り過ぎていく。『今ここに落ちたら、一発で食われちまうよ』コックがまじめな顔で言った。
(写真はロシアから松材を運んでいるところ。間宮海峡周辺)
 
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---中国はその頃、まだ紅衛兵の時代だった。当時行きかう人々は男も女も、大人も子供も緑色のモコモコとした国民服を着ていた。招待されて、たまに街を歩く我々は周囲に何重もの人垣に囲まれ頭の先から足元まで物珍しそうな視線を全身に浴びていたものだった。『パンダを見に行ったらパンダになった』大連の動物園を訪ねた時、パンダ舎の檻の前でふと振り返ると数十人の中国人がパンダを見物している我々をまるでパンダを見る視線で取り囲んでいた。
(中国で路上に信号待ちしていると外人が珍しいのか、たちどころに周囲から物見高く寄ってきた)
 
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---北朝鮮。この国だけは船員を街へ招待しない唯一の国だった。中国やロシアは同じ共産圏ながらシーメンズクラブと言う船員のための娯楽の建物を設け飲食物を提供し単調な船の暮らしから気分を変えてくれたものだった。時には市内のデパートなどを案内することもあった。しかしこの北朝鮮だけは例外で一切港湾施設から船員を外に出そうとしなかった。            
千トンに満たない小さな冷凍船でアサリを積み込みに接岸した時、殺風景な岸壁には一日中警備のための兵隊が佇んでいた。カラシニコフ機関銃を斜めに背負い彼が警戒し見つめる先は、今思い返してみても海に対してではなく陸地に対してだった。入ってくる敵ではなく出て行く国民に対する警戒だった。
 
---国内に船がドッグ入りした時、船体の定期修理で2年か3年に一度、数週間をかけて船体を補修した。車で言えば車検でその期間、船員は船を離れドックの近くの旅館や専属の宿舎に泊まった。東南丸は瀬戸内海のとある島にドック入りした。因島に近い小さな島で、車で1時間もあれば島内のすべてを一周してしまう狭い島だった。1週間ほどドックにいることになり交代で数日、実家に帰ることになり賄い婦の娘さんが桟橋まで車で送ってくれた。ニコニコと愛想のよい娘さんだった。数日して戻る時も迎えてくれた。出港の前日、片づけをしていると賄いのおばさんが『どうです、うちの娘は?』とぽつんと言った。『親切ですね、助かります』と私は滞在中の親切さに感謝を言った。
  おばさんはそれ以上、私に何の言葉を期待していたのだろう。小さな島で男と接する機会の無いまま埋もれさせるより、どこか島から離れた処に嫁がせたいと願う母心があったのだろうか。『親切ですね、助かります』の言葉以上を娘に期待していたのか、私がそれしか話さないと彼女は困ったように黙った。翌日、出港で船がドックを離れる時、おばさんと娘さんは揃っていつまでも岸壁で手を振った。二度とくることの無い島だろう、二度と会うことのない人だろう。海の青さと海の透明さが心に残った。
 
 
----フィリッピンのサマール島に着いたのは年末も押し詰まった12月の末近くだった。ラワン材の集積のためにサマール島のジャングルその沖合に船は投錨したのだが、途中の航海は荒れに荒れた。一番高い船橋から見ていると全長90mの船体の下に3つの波が、つまり一つの波幅が30mの波が船を襲い波の頂点で船が折れはしまいかと危険を感じていた。
(時化の海を行く船 )イメージ 4
 
深夜に目的地域に到着し投錨したが、異様な気配と音に目が覚めて暗い海を見ると、部屋の丸窓の外にはいたる所に海の波が沸き上がるように水面に立っていた。激しい潮流のぶつかり合いの真っただ中にいるかのように波柱が立ち上がっていて、それは初めて目の当たりにする恐ろしい自然の光景だった。
季節外れの嵐に襲われ、集積していたお目当ての材木は大半が流され、楽しみにしていた正月の帰国は不可能が予想された。集積していた材木の大半が流失したのだから集まるまで待つしかない。小船が本船へラワン材を引っ張ってきて積み込む作業を繰り返していたが、散ってしまった材木の集荷は効率が悪かった。人夫達はこの船の積み込みのために周辺から働きに来ていたが、ジャングルの生い茂る不便な場所ゆえに彼らは夜になると陸地に帰っても泊まる場所が無く、また交通手段も無く、仕事が済んでも船内の通路に寝転んで夜を過ごしていた。
(通路は現地の人夫たちの夜のベッドルームとなった)イメージ 5
一つの船に日本人船員とフィリピン人が同居する形となった。数百メートル離れた先に陸地は見えるが、カヌーで行っても陸地には数件のバラック立ての建物があるだけでその村には泊まるべき小屋も、電気も水道も無かった。人夫たちは近辺のいたるところから職を求めて集まっている集団だった。ここでの男たちの唯一の現金収入の道は、船の労働者として働くことだった。
沖合から眺めると、夜になると石油ランプの赤い光りがいくつかポツンと光りその光りを見てこの地域には電気が通じていないのが判った。水道もガスもおよそ文明に必要なものはここではまだ整備されていなかった。日本では考えられないが、そんな文明とほど遠い地域は東南アジアにはいくらでもあった。
(大河での材木の積み込み作業時、船に物売りに来る娘たち・現地のバナナや果物と、日本のたばこや缶ビールがよく交換され、上陸の足として利用させてもらった)イメージ 7
 
彼らは何でも盗んだ。通路に洗濯ロープを張って下着でも干していると確実に無くなった。洗濯ロープさえ無くなった。すべての備品は鍵のかかる部屋に片され、彼らが手の届くものはどんなものでもすべて盗まれた。そういう背景があって彼らは通路以外の立ち入りはすべて禁止されていた。
ある晩、船内が騒がしくなった。その数日停泊しているうちに私は何人かの人夫たちと親しくなっていたのだが、その親しくなっていた数人が夜にドアを激しくノックし私を起こした。眠い目をこすってドアを開けると何人もの人夫たちが不穏な目つきで集っていた。時間は深夜になっていた。顔見知りの数人を狭い私の船室に入れると彼らは堰を切ったように話し出した。「お前の国の当直が俺たちの仲間を殴った」と言う。ある人夫が、やはり他の日本人船員と仲よくなりラーメンをご馳走してやるから来いよと誘われ、その人夫を食堂に待たせ船員は自分の部屋に即席ラーメンをとりに行った。その一人になった間に当直で見回り役の船員に人夫はみつかり、咎められた。『ここから出て行け、お前らの許可された場所じゃない』と怒鳴られ、人夫は人夫で説明しようとしたが言葉が判らず、言ってもわからない奴だと殴られた。事実、彼らは何でも盗んだ。彼らは通路以外の立ち入りはすべて禁止にされていた。勝手に入り込んだとなると盗みに入ったと思われても仕方ないことだった。
殴られたという事実だけが船内に広まり、そこは文字通り狭い通路のことで仲間たちに噂は瞬時に広がり騒ぎは大きくなり、日ごろのさまざまな鬱憤がそれを契機に爆発しそうな雰囲気だった。ドアの外で『ほらっ、持っているぜ、見ろよ』これ見よがしに懐に隠しているナイフを抜いて私に見せる奴もいた。『そんなもの絶対使うな!ナイフなんか出すんじゃない!』思わずそいつに私は怒鳴った。被害者の男は出血はなかったが口許が青黒く腫れ上がっていた。話の中で「BOX」という単語が何度も出て来て一瞬「箱」が暴力と何の関係があるのか分からなかったが「BOX」はボクシングのボックスで持っていた英単語辞書を引くと「殴る」という意味のあることをこの時に改めて知った。辞書を引きつつ彼らから経緯を聞くと私はすぐに船長のいる食堂に向かった。食堂では船長と暴力を振るった当直、フィリピン人監督、税関が何やら難しい顔で話をしていた。ぞろぞろとついてきた人夫達は俺たちも入るぞという素振りを見せたが彼らを制しドアの外に待たせ私は船長に、船内が不穏な空気に包まれていること、そして彼らから聞いた言い分を説明した。当直は神妙な顔をして腕組みをしていて周囲の皆から殴ったことを咎められているのだが、ことの重大さにまだ気が付かないのか不満そうな顔をしていた。当直の男は、よく言えば男らしく、悪く言えば粗暴な男だった。海外において、船長は船の中で警察官の役割を代表しすべての責任者であった。
結局、翌朝になって事情説明が全員になされ当直は殴った人夫に謝罪することで決着をつけた。一時はどうなることかと思った。この国は政情不安で共産ゲリラも跋扈し、密造拳銃も流通、平和感覚が日本とは全く違う。海賊や強盗は日常茶飯で何でもありの国だ。暴力事件をきっかけに狭い船内で日本対フィリピンの抗争になるのは訳の無いことだ。どうにか収まったことに私はほっとした。翌朝、船長は私の顔を見ると『夕べはあれから眠れなかったよ、サロンにも色々済まなかったな』と挨拶されたものだ。人夫たちは、サービス、サービスといって何かと人の後を追いまわしてはタバコや物をねだっていたが、この件があってからそれまでのように気安く日本人にまとわりつくことが無くなった。
(写真はインドネシア)イメージ 6
私が何人かの人夫たちと仲がよくなったのには訳があった。賄の仕事をしていると船員達に食べ残しが出る。フィリピン人たちの食事は見ていると実に倹しいものだった。米を持ち込み外の通路で飯を炊き、釣ってきた魚をスープの中になにがしかの野菜と一緒に煮込んでそれをご飯にかけてスプーンですくって食べるのがほとんど毎食だった。それに比べれば我々の食事は彼らからすれば羨望の的だった。調理室を取り囲む丸窓にはいつも彼らの恨めしげな顔が張り付いていた。バケツに捨てられる何人分もの料理をじっと見つめている彼らの視線が文字通り喰い入るようだった。私は、船員たちの手の付けられない残り物を集め、人の目のいない時を見計らっては彼らにこっそり分け与えた。『いいか、秘密だぞ。他に言うなよ』甲板にいた数人の人夫たちは喜んで食べ物を分かち合っていた。捨てるよりは連中に食べてもらった方がいい。捨てればそれはゴミだ。何人かの人夫は通路ですれ違う時、人懐かしそうに笑顔を向け、通路に座って一緒に何か話して行けとズボンを引っ張ったものだった。