6 山から戻った夜
以前、富士山に登頂した時のことを書いた。霊感の強い妙な女の人と途中で合流することになり、頂上近く迄案内すると、まるで私の役割はそこまでで終わったかのようにその女の人は何処かに行ってしまった、と言う話だった。その時、福田さんと言うその女性は「途中に小さな子供が何人も私にぶら下がってきて重くて困った」と言っていたが、この話はその後の話である。
あの話から1,2年経った頃だった、恒例の富士登山を私は復活させていた。いつものように単独の登山であった。その時はバスで河口湖駅から5合目までを明るい午後の陽射しのもと出発した。車内はほぼ登山客で満席だった。バスが駅を背にして麓を登っていると、急に車内のチャイムが鳴った。バス停は5合目の間には数箇所しかなく、途中で降りる登山者はほとんどいない筈。妙なところで下車する人がいるものだと思った。見回せばバスの周囲は濃い緑の針葉樹に囲まれ、建物は一切見当たらない場所だ。停留所の名前も放送しない時に、変な場所でチャイムを鳴らす人がいるものだ、降り損なった人でも居るのか、そう考えたのは私ばかりでは無いようで運転手も一応は車を停めると「どなたか、ここで降りるんですか?」と念のため車内放送をした。誰からも返事が無かった。運転手はもう一度、誰もチャイムを押さなかったか確かめ、誰からも返事が無く何かの間違いでボタンを押した人がいるのだろうと再び車を発車させた。
しかし数分も経つ頃、再びチャイムが「ピンポーン」と鳴った。運転手は再び車を停車させると「誰か、降りるんですか?」真顔になって運転席から立ち上がると車内確認にやって来た。さすがに乗客たちも誰がボタンを押したのか互いに目をやっていたが誰もボタンを押してないことを確認すると一旦車の降車ドアを開け、車外にも回って異常の有無を点検し始めた。いたずら盛りの小中学生が乗っていれば犯人探しの話になるが乗客は皆、青年や中年、壮年の男女だった。気味が悪かった。誰か乗り降りする人がいるんだろうか・・・。
「なんだろなぁ、接触が悪いのかな?」運転手は独り言を言って念のため乗客に「五合目の手前で降りる方はいらっしゃいますか?」と確認を取った。全員が5合目までの客だった。「接触が悪いようなので、今度チャイムが鳴ってもそのまま運転を続けますから」と宣言して走り出した。
その時の登頂の模様は今回省略する。例年通り、なんとか無事登頂し、翌日の夕方には汗臭い身体で自宅に何とかたどり着いていたのだった。・・・問題はその夜だった。
富士山に登って帰ってきた日の、何よりの楽しみはその晩の冷えたビールだった。登山をしてくると一挙に2Kg位体重が落ち、その大部分は出た汗のせいで身体は水分を、特に冷えたビールを欲しがった。帰ると冷凍庫にジョッキを入れ、ギンギンに凍らせ、風呂から上がってさっぱりするとそのジョッキに氷を半分ほど入れ、これまた冷え切ったビールを注ぎ、最初の一口をのどを鳴らしながら飲む時の幸せは、このために富士山に毎年登るのだと言ってよい位、極上の喜びであり、楽しみだった。その晩も、体重が元に戻る位にビールを飲み酔いが廻ると日本酒に換え、気分も身体もほぐれる至福の夜を迎えたのだった。
妙な体験をしたのは、その晩だった。
私と妻、そして小学校低学年だった娘と三人は、二階の和室に子供を中心にして川の字に布団を敷いていた。その晩は8月の暑い盛りだった。私は子供と一緒に二階に上がると間もなく横になった。
 深夜、人の気配に眠りから覚めた。誰か、足元に立って歩いている気配がした。
暑さよけに布団にゴザを敷いて寝ていたが、足元のそのゴザを踏む気配が寝ている体に伝わってきた。一歩歩くたび、ゴザを通して踏み込む感覚が伝わりギュッギュッと踏む音が枕越しに響いた。反時計回りに、足元、左側、次に肩の位置に向かい寝ている私を見下ろし観察するように歩いている。瞬間、子供だと思った。踏み込むゴザの沈み方が大人ではなく浅い沈み方で、私の娘ほど成長していない、そうだ3,4歳の小さな子供だと直感的に思った。私の周囲をグルリと確かめるようにゆっくり一周すると、早足になった。
「これは、何か変な霊が付いてきた」
富士山から私は子供の霊を背負ってきてしまったらしい。2周目の早足が3周目の駆け足に変った時、私はタイミングをあわせ右側を通る瞬間に足払いの蹴りをいれた。左側には娘が寝ていてそちらに蹴ると怪我をさせるおそれがあった。さっと寝返りをうちながら左足で払うように蹴った。数年前まで空手をやっていたので蹴りには自信があった。「ドスン」と部屋中に鈍い大きな音が響いた。ムクッと上半身を起こすと蹴った先には障子、更にその先には網戸が破れて穴が空いていた。一番奥にあるアルミサッシが蹴りで大きな音を立てたのだった。ガラス戸は幸いにも開いていてぶつからなかった。
 左側を見ると、上半身を起こした娘と母親が布団の上でしっかり抱き合い恐怖のまなざしで私を見ていた。時計は深夜の1時を過ぎていた。言葉も出ない様子で、二人で目をぱちくりさせている。
「ごめん、・・・寝ぼけていた」
やっとそれだけ言うと私は何事もなかったようにまた布団に横になった。蹴った後、足元を見渡したが誰も其処には倒れていなかった。確実にゴザの上を子供が歩き、足音も聞こえていた。そんなことを言うと気味悪がって娘達は眠れなくなってしまうだろう。寝ぼけていたことにすればいいだろう。
翌朝、明るくなると障子と網戸は足の部分だけ見事に突き抜けて破けていた。暑いからたまたまその部分だけ開けてあったが、ガラス戸がもし閉まっていたらどうなっていたかと思うとぞっとした。
 
夜が再びやって来た。私は娘を連れて二階に行くと布団の上で娘を正面にして話し出した。
「夕べ、夜中にすごい音がしたろう?ドーンって」
娘は昨夜のことを思い出すとウン、とうなずいた。私はまじめな顔で娘に昨夜のことを説明し始めた。深夜、ゴザを敷いて寝ているとそのゴザを通して歩く気配が響いてきたこと。小さな、娘よりももっと小柄な子が私の周りを一周歩き、次第に足早になり、駆け始めたこと。その動きがゴザを通じて伝わっていた。それで捕まえようとして足払いの蹴りを入れた、と話した。小学生だった娘は父親の言うことを、その表情から冗談ではないと判ったのか、うん、うん、とうなずいて聞いた。
「登山バスに乗っている時から変なことがあったんだ。誰もチャイムを押してないのに、停まれのチャイムが鳴って山道の途中でドアを開いた時があった。・・・どうも富士山から、霊だか何だかが憑いてきてしまったようなんだ」
このまま寝ると、また夜中にあらわれるかもしれない。昨日は右側に蹴ったが、今度出たとき、反対側に蹴ったら娘を蹴ってしまうかもしれない。
「そしたら怪我をさせてしまうだろ?」娘は心配そうにうなずいた。
「ああいう『霊』って言う奴は、強い調子で怒らないといつまでもそこに居ついてしまうらしいんだ。怒らなければ逃げていかないらしい。だから今からお父さんは大きな声を立てて怒鳴ったりするけど、頭がおかしくなったんじゃない、追い出すため大声を出すんだからね」
娘は話を理解し冗談ではないと受け止めてくれた。下手すると近所の人にも聞こえてしまうかもしれないが、と断ってから深呼吸し、部屋の虚空を睨みつけながら私は腹の底から声を張り出した。
「富士山から憑いて来た子供よ! 」一呼吸入れて続けた。
「ここはお前の来る場所ではない! すぐにここから出て行け! ここから出て、二度と戻ってくるな! 出て行け!わかったか!
気合を入れるように声を出した。短時間の緊張が解けて娘に笑顔が浮かんだ。
「さあ、これでもう大丈夫だろう。今夜は何も起きないだろう」
その晩、暑苦しさに何度か目がさめたが何事もなかった。
ゴザを踏む気配、身体に伝わる一歩ごとの動き。紛れもなく横になっていた私の身体にあの晩、子供の動きが伝わっていた。膚だけではなく耳にも伝わっていた。五感に感じたものは勘違いではなかった。一体あれは何だったんだろう?
 
後日談。

その秋、たまたま小さな子供達と広い畳敷きの合宿所で布団を敷き、大勢でごろ寝をする機会があった。子供達はみんなと一緒なのがうれしく興奮し布団の周りを走り回っていた。寝転びながら目をつぶっていると、畳から響いてくる足音、歩幅はあの晩と同じで、廻る方向もあの時と同じ反時計回りだったことに妙に感心するのだった。やはり子供だったのか。そして思うのだった、あれは何だったのだろう、と。