隼人の盾を持って踊る京都・大住隼人会の学生たち

京都は隼人が移り住んだ地。奈良時代(約1300年前)の話らしい。

大住から来たと云うことだが、本来は大隅隼人なのだろう。

 

景行天皇の九州巡行も遂に日向国に到りますが、

豊前国、豊後国と違って、その詳しい場所は解りません。

しかも、今回の話は極めて物語的要素が強く、土地との関連は薄くなります。

だいいち熊襲は熊本に本拠地を持つ部族で、日向国とは関係ない。

熊襲は『魏志倭人伝』の記す、狗奴国の後継勢力とも考えられており、

卑弥呼時代の狗奴国は倭国と対等に戦える力がありました。

しかも倭国と狗奴国の戦いの決着は卑弥呼時代には付いていないので、

倭国が王都を畿内に東遷して西日本全体を把握し、大和朝廷を築いた後も、

熊本に残された狗奴国勢力は大和朝廷に歯向かい続けていたのです。

 

宮崎や鹿児島には熊襲とは別の部族である隼人が住んでいました。

その証拠に日向隼人、大隅隼人、薩摩(阿多)隼人の名称が残っています。

現代でも鹿児島県人は、自らを薩摩隼人であると自認しているようです。

但し、阿多隼人、大隅隼人、日向隼人の名称は忘れ去られつつあります。

 

因みに景行天皇が豊前国で殺した鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折らは、

熊襲と呼ばれるが、彼らは本来の熊襲ではなさそうです。

対して、豊後国の青、白、打猨、八田、国摩侶らは土蜘蛛と記されます。

なにより、打猨、八田、国摩侶ら土蜘蛛の本拠地は、

ほぼ阿蘇の外輪山辺りであり、本来の熊襲の勢力圏内にあるのだから、

景行天皇が土蜘蛛征伐後、本来の熊襲と接触してもおかしくないだろう。

 

景行天皇(即位12年)十一月、日向国に到り、行宮を建てて住みました。

これを高屋宮(たかやのみや)と謂います。

この高屋宮の場所も不明だが、日向国内で熊襲と直ぐに接触できる地で、

豊後直入郡から程近い地のはずだから、高千穂辺りが考え易いだろう。

 

 

因みに、景行天皇の行為は、天皇とは思えない程、相変わらず卑怯であり、

地方民を平気で殺しまくるので、この章は少しも面白い記事ではありません。

しかし、『日本書紀』編纂部はこの話を面白いと思い込んでいる辺りが、

『記・紀』編纂期の人たちと現代人との感覚のズレを感じる由縁ですね。

 

十二月癸巳朔丁酉(五日)、熊襲を討とうと協議した。

此処に於いて、天皇は群衆に向かって言った。

「熊襲国には厚鹿文(アツカヤ)と迮鹿文(サカヤ)という者がいると聞く。

この二人は熊襲の統率者で、仲間や部下は多い。

この人物を熊襲八十梟帥(クマソノヤソタケル)と言う。

その軍団は強くて、敵うものがいない。

しかし、師(いくさ)を起こさなければ賊を滅ぼすことは難しい。

だが、多くの兵を動かせば、百姓が被害を受けることになる。

どうにかして、戦争を起こさず、熊襲国を平定したいものだ。」

 

その時、一人の臣が進み出て曰った。

「熊襲梟帥(クマソタケル)には二人の娘がいます。

姉を市乾鹿文(イチフカヤ)と云い、妹は市鹿文(イチカヤ)と云います。

天皇さま、姉妹の容姿は端正で、心は二人とも猛々しい。

ぜひ、沢山の贈り物を示して、姉妹を幕下に召し入れるべきです。

そして、熊襲梟師の居所を聞き、不意に襲えば、刃を血濡らさず賊を倒せます」
 

天皇は「良い案だ」と、直ぐに同意しました。

そして、天皇は二人の女性を幕下に召し入れ、姉の市乾鹿文を寵愛しました。

この時、市乾鹿文が天皇に奉じて云うには、

「熊襲が従わないことを憂わないでください。

私に良い策略が有ります。直ぐに一二名の兵を私に付き従わせて下さい」

 

彼女は家に帰り、父に強い酒を飲ませると、熊襲梟帥は酔って寝てしまいました。

その間に市乾鹿文は密かに父の弓の弦を切ってしまいました。

すると従えてきた兵の一人が進み出て、熊襲梟師を殺してしまいました。
天皇はその不孝の酷い様子を憎み、市乾鹿文を誅殺してしまいました。

それで妹の市鹿文(イチカヤ)に火国造に与えました。

 

火国造と言う位だから、この国は日向国ではなく、やはり熊本なのだろう。

 

因みにこの後景行天皇は南九州をぐるっと回り、有明海から阿蘇山に近づき、

熊襲と思われる火の君と遭遇するのである。しかも、その後更に、

景行天皇の息子の倭建命が熊襲梟師を殺す物語もあるので、

熊襲梟師はいったい何度殺されるのか解らない程、殺され続けるのである。

 

それとも、この時代、熊襲と隼人の違いは明確ではなかったのか?

その割には神武天皇の祖父の火遠理命の兄、火照命が隼人の祖とされる。

つまり、その昔、熊襲と隼人の違いは明確だったのだが、

違いをあまり気にしない『日本書紀』編纂部が混同してしまったようです。

 

つまり、『日本書紀』の理解では、東北地方、北海道に住む未開人が蝦夷、

九州や琉球などの南方に住む未開人が総じて熊襲であり、

その中でも特に縄文時代以来の穴(竪穴式住居)に住む人々を、

土蜘蛛と揶揄していたのではないかと思われるのです。

 

 

 

 

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