中臣(藤原)鎌足像
『日本書紀』は中大兄皇子が実際には百済皇子・翹岐であることを示しています。
しかし、世の中には感覚が鈍いせいか、このことに全く気付かない人が多いのですが、
『日本書紀』編纂部には例によってウソを書くことのできないバカ正直な編集者がいて、
中大兄皇子が百済皇子・翹岐であることを示唆するとともに、
中臣鎌足が百済大佐平・智積であることを、行間で語っているようです。
翹岐は安曇連比羅夫が朝廷に連れてきて、暫く自宅に泊め置かれたと記されます。
安曇連比羅夫はその名の通り、倭の海人・安曇族の当時の首長だったようですが、
日本周囲の海を駆けずり回る倭の海人族は、百済王権とも昵懇だったらしく、
この時は百済政権側について、倭国政権を転覆しようと企んでいたようです。
そして、翹岐と智積は二人でこそこそ相談していたと『日本書紀』に記されると、
その後、二人とも『日本書紀』から、いきなりその名前が消えてしまい、
次に出た時に翹岐は中大兄皇子として、智積は中臣鎌子の名で登場するのです。
しかし中臣鎌子は本来欽明天皇時代の人物で、この度約百年ぶりの登場となります。
どうやら、百済人智積は中臣氏のふりをして、大和朝廷に潜り込んだらしいのです。
しかも中臣鎌子は暫くすると中臣鎌足となり、更に藤原鎌足を名乗るようになります。
あまつことに朝廷は、藤原氏が不比等以降、一世を風靡するようになると、
『藤原を名乗る元の中臣氏は氏を中臣に戻すように』とのお触れを出したとされます。
こんなバカな話が実際に当時の世の中で通ったのでしょうか?
つまり、中臣鎌足は天照大神の岩戸隠れ時に活躍したとされる大和朝廷の古い豪族、
即ち、天児屋命に由来する旧来の中臣氏ではないのです。
また中臣鎌足の妻とされる、鏡王女は額田王の姉とされており、共に鏡王の娘です。
『日本書紀』で鏡王女は宣化天皇の系譜の伊那鏡王の娘とされているが、
舒明天皇の娘という話もあり、どちらかと言えば、翹岐が母親の沙宅(サテク)王妃
や姉妹たち共に済州島に流された鏡王一族の一人と考えられます。
つまり、鏡王の二人の娘のうち姉の鏡姫は智積=中臣鎌足と結婚しますが、妹の額田王は翹岐=中大兄と大海人の間で獲り合いとなり、結局、大海人皇子が勝って結婚し、十市の皇女が生まれると、大人になってから翹岐=中大兄の息子・大友皇子(弘文天皇)と結婚したのです。
『日本書紀』では、乙巳の変=大化の改新により、蘇我入鹿と蝦夷が、
中大兄皇子(百済王子翹岐)と中臣鎌足(大佐平智積)に殺されてしまいますが、
その頃、聖徳太子の息子・山背天皇も同様に翹岐と智積に殺されたようです。
つまり、『日本書紀』の記す皇極天皇紀は山背天皇時代の話となります。
この時の山背天皇殺しの罪を『日本書紀』は蘇我入鹿に全て被せてしまい、
蘇我入鹿が乙巳の変で殺されても、当然といった雰囲気を作っています。
このときのクーデターで、倭国の蘇我氏政権は百済王家に簒奪されますが、
蘇我氏内にも百済亡命王家側に手を貸した倉山田石川麻呂や赤兄などがいて、
彼らは自分の娘を中大兄皇子に差し出して、政権内に良い地位を築いたようです。
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