倭人のルーツ(再改)呉人・越人

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山口県下関市豊北町土井ヶ浜博物館に展示される弥生渡来人の白骨死体

砂地に300体を超える弥生渡来人の遺体が埋められ、その顔は全員故郷?の西を向いていた。

 

 

魚豢(ぎょかん)の書いた『魏略』には「聞其旧語、自謂太伯之後」

「其の旧語(昔話)を聞くに、自らを太伯の後(胤)と謂く」記されます。

これは卑弥呼が魏に貢献したときに遣わされた倭使・難升米の言葉なのですね。

つまり景初二年(AD238)秋、倭使・難升米は魏の官邸に出で、明帝や諸臣等の前で、

自分達倭人が呉の祖・太伯の血を引いていることを高らかに宣言したわけです。

 

ところが『魏志倭人伝』を書いた陳寿はこの文を隠蔽し、

「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫

「古より以来、その使が中国に詣でるに、皆自らを大夫と称す」にスリ変えてしまった。

 

何故ならば、陳寿は蜀出身の彼を官職に雇ってくれた西晋政権に慮り、

西晋建国の祖・宣帝「司馬懿仲達」の手柄とされる倭女王卑弥呼の魏貢献が、

魏の敵国・呉の関係者だったことを世に知らしめたくなかったのでは?と考えられます。

 

しかし、実際には倭人の成り立ちはなにも呉人ばかりではありません。

呉人たちに遅れて、日本列島に渡来した越人たちも又、倭人になったと考えられます。

陳寿の書いた「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫の後に続く文は、

「夏后少康之子、會稽に封ぜられるや、斷髮文身し、以て蛟龍之害を避く」であり、

越の祖となった夏后少康の庶子無余の話が綴ってあります。

 

夏の王・小康の庶子(皇后以外の妾の子)だった無余は王にはなれず、

他の皇子たちとの王権相続争いから逃れる様に都から遠い会稽に移住しました。

会稽は夏の祖・兎が崩じた土地であり、よって、無余は会稽で兎の祭祀を行った。

同時に無余は黥面文身、即ち顔と体に入れ墨を施した。

無余はこうすることで現地人と心身ともに一体化し、都に戻らない意思を示したわけです。

この黥面文身は江南地方に住む海人族達の風習であり、

海に潜って魚を獲る時に鮫に襲われない様な呪いとされているものです。

 


また、この話は呉の祖・太伯・盧仲についても似たような話が伝わっています。

但し、太伯・盧仲の話は無余の話を模した後世の創作とも伝えられており、

だから魚豢陳寿も太伯が会稽に封ぜられた話を採用しなかったのでしょう。

 

即ち、呉人も越人も王が違うだけで、何れも中国長江下流の水郷地帯に住み、

漁業と水稲耕作を営んでいた海人族であり、民族的には殆ど同一の人々でした。

 

つまり、呉が隣国の越に滅ぼされたBC473、越が内陸国の楚に滅ぼされたBC334辺りに、

中国江南の地から直接海を越え、縄文時代の日本列島に渡来してきた人々が、

中国の先進文化を縄文人たちに伝えたことから倭に文明開化が起こり、

日本列島に弥生時代が到来したのだと考えられます。

 

この説に対し、弥生時代の東シナ海が、渡海可能だった可能性について、

特に古代史研究家の方々には疑問を呈する方が多いのですが、

実際には数万年前の旧石器時代から、スンダランド(インドネシア辺り)を出発点に、

日本列島を含め、太平洋全域への渡航が繰り返されていたようです。

その証拠に千葉県市川市の雷下遺跡から約7500年前の丸木舟が出土しています。

アジア人は約一万四千年程前、既に北アメリカ大陸へと到達していました。

古代人の航海力の高さを示す例として、南海産の貝殻貨幣や伊豆神津島産の黒曜石が、

日本列島や中国大陸の各地で(奥地も含めて)見つかっています。

 

現在でも太平洋上に数多く点在する島国に暮らす海洋民族の人々は、

アウトリガー・カヌーの様な大きな波にも転覆しにくい丸太くり貫き舟に乗り、

手漕ぎ、或いは帆を付けて風の力を頼りに、夜には太伯(北極星)や南十字星を目印に、

広大な外洋を島伝いに、相当長い距離を旅することが出来ます。

 

つまり、中国江南地方に暮らす海人族の人々にとって、

船は非常に身近な存在であり、各家庭に一艘ずつあったはずです。

だから故郷で戦争が相次ぎ、祖国の敗戦と共に敵国軍に追われた人々は、

敵に捕まって、殺されたり、奴隷にされるよりは遥かにマシだと云うことで、

手持ちの船に乗り、命懸けで外洋に船出したのだと思います。

勿論、なかには遭難してしまう船も多かったことでしょうが、

出航した船の数が相当多かった(数万艇程か?)こともあり、

遭難の危機を乗り越えて、対馬海流に乗り、

日本列島に流れ着いた舟が相当数有ったのだと思われます。

 

確かに、自国の滅亡から逃れた呉や越の人達のなかには、

中国大陸の海岸沿いに逃げた人も大勢いたでしょうが、

鳥越憲三郎氏のように、彼等を倭人・倭族と呼ぶのは間違いです。

鳥越氏の言うように江南の海人族が太古に倭人と呼ばれたことも有るかも知れないが、

彼等はあくまでも呉人であり越人であります。

 

日本列島に流れ着いた呉人や越人達は現地の縄文人と結婚、混血しましたが、

この時生まれた縄文人と渡来人の混血児の子孫、

即ち弥生人を当時の中国では倭人と呼んでいました。

日本列島に住む倭人と、太古の中国に住んでいた(倭人)を混同してはいけません。

 

 

土井ヶ浜で出土する遺骨は、面長、細面、長身と云う渡来人の特徴を呈する。

 

『魏志韓伝』には朝鮮南部弁辰の地で、

韓人や濊人たちと共に鉄を獲る倭人の姿が見られますが、

倭人達は当時既に壱岐・対馬ルートを渡って、南北に市擢していたので、

朝鮮半島に日本列島由来の倭人が居るのは当然の話です。

 

しかし彼等は北方由来ではありません。

朝鮮半島北部には別の勢力、即ち大陸系騎馬民族の高句麗や扶余などがあり、

海洋性民族である倭人の通過を拒んでいました。

海の民・倭人達は伽耶の地=金韓加羅国=狗邪韓国辺りに、

自分達のコロニーを作って住んでいたものと考えられます。

 

つまり私は中国内陸経由で朝鮮半島南端に倭人が辿り着いた話には、

かなり懐疑の目を向けています。

 

実際のところ、日本列島に朝鮮半島経由の渡来人が増えるのは、

卑弥呼の時代よりも更に後の話であり、

西晋が皇族間の後継争いと宦官の跋扈で内部崩壊する頃、

楽浪郡・帯方郡の管理が滞ると、

AD313には扶余系騎馬民族出の高句麗が楽浪郡を滅し、続いて帯方郡も瓦解しました。

すると中国王朝・西晋の統制を失って無政府状態となった朝鮮半島には、

扶余系騎馬民族が大量に流入(南下)してきました。

 

四世紀半ばになると朝鮮半島南部の馬韓や辰韓に有った多くの小国が連携し、

百済や新羅を建国しますが、扶余系王が支配するそれ等の国に住む住民の多くは、

結局、戦乱の世となった朝鮮半島を嫌って、大挙して倭の地に逃げて来ました。

 

『記・紀』に記される天日鉾や弓月君なども

この頃渡来した朝鮮半島の王族を中心とする一団だと思われます。

この時渡来した人々は馬を舟に載せて対馬海峡を渡ってきたので、

その後日本列島に馬が定着したのだと考えられます。

 

また、この時代のことを鑑みて、江上波男の『騎馬民族征服王朝説』が出て来た訳ですが、

四世紀半ば以降に起きたこの話を『神武東征物語』と結びつける発想は間違っています。

 

 

『神武東征』はあくまでもAD260~270頃に日本国内で実際にあった出来事です。

 

『記・紀』によりますと伽耶の地には後の世になると任那日本府がおかれます。

しかし任那は倭国と百済や新羅との間で争奪合戦の対象となり、

継体天皇の頃、結局新羅に吸収されてしまいます。

 

この時には筑紫の守磐井と大和朝廷の戦いもあったので、

興味の尽きないこの時の話も、そのうち書いてみたいと思います。 

 

 

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