【新放射説私案②】

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帯方郡使による倭国訪問記(その五)

 

榎一雄の放射説を下に図示する。

伊都国を起点に奴国、不彌国、邪馬台国、投馬国に何れも放射状に至るとしている。

 

 

しかし、私は今回【新放射説私案】を提言し、下図に示す。その違いは、

伊都国を起点として放射状に至るのは、

投馬国へ至る水行二十日と

邪馬台国へ至る水行十日

及び陸行一月であり、

奴国と不彌国は、邪馬台国へ至る陸行一月の途中に有るとするものである。

 

 

 

 

その理由は、景初三年に派遣された仮の帯方郡使=【倭国調査隊】は、

【郡使往来常に注する所】と記される伊都国に駐屯しつつも、

倭国の調査の為に、伊都国周囲を積極的に往来しながら、

奴国と不彌国迄は至っていたと考えられるからである。

その証拠に奴国は伊都国から東南百里で至り、

不彌国は奴国から東行百里で至ると記される。

つまり、この二国は共に倭人が知らないとされる里程がちゃんと記されているのである。

 

では、【新放射説私案】を実際に地図上に示してみよう。

先ずは、水行二十日で至る投馬国と、水行十日又は陸行一月で至る邪馬台国。

 

 

水行二十日で至る薩摩国=殺馬国(蔑字)=投馬国(略字)は、

水行十日で至る邪馬台国の約二倍の距離に有る。

この場合、投馬国の道里・戸数が示されているのに邪馬台国より南に在ることは、

『魏志倭人伝』の『女王国より以北は、其の道理・戸数を略載可為れども、

其の余の旁国は遠絶にて詳らかにし得ず。』の記載に、矛盾すると考える向きもあるが、

この文章は女王国以北の戸数・道理の略載が可能と述べているのであり、

女王国以南の国の戸数・道理の略載を禁じているわけではない。

戸数五万戸の投馬国は、当時から中国でも有名な国だったはずであり、

誰でも知っているから、其の余の旁国ではないと、いちいち断らなかったのであろう。

 

【末魯国に上陸せず、伊都国に上陸した魏の正使・悌儁等】

 

『魏志倭人伝』に、

「女王国より以北には特に一大率を置き、諸国を検察する。諸国之を畏憚(いたん)す。

常に伊都国にて治す。国中において勅史(しし)の如きあり。

王が使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣で、及び郡の倭国に使するに、皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書・賜遺(ようい)の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯(ささく)し得ず。」

と記される。

この記載から、正使・悌儁等が魏から舟で齎した、文書・賜遺の物は、

すべて伊都国の港において陸揚げされ、

一大率により捜露(検閲)を受けていたことになる。

一度検閲を受けた品物を再び船に詰め込んで、水行を再開するはずは無いのである。

このことからも、【邪馬台国畿内説】は絶対に成り立たない。

 

つまり、正使・悌儁等は末魯国で上陸せずに伊都国の港に直接来航し、その後は水行せず、

一大率に案内されて、邪馬台国迄の道を陸行で辿ったことになる。

文書・賜遺の物は、一大率が責任を持って、邪馬台国に居る倭女王卑弥呼に届けた。

と云うことは、末魯国に上陸して、伊都国までの五百里を陸行したのは、

やはり景初三年に遣わされた仮の帯方郡使=【倭国調査隊】だったことになる。

 

さて、それでは伊都国から邪馬台国へ至る南陸行一月であるが、

私は伊都国ー邪馬台国間には、当時から倭国の主要道(街道)が通っていたと考える。

しかしそれでも、倭国の地形は山あり谷ありで、当時、橋やトンネルは無く、

なかには「行くに前に人を見ず」の難道も有ったであろうから、

中国大陸の長里「一里=435m」で通用する『歩行一日50里』と同じ基準が、

倭国の粗悪な道路事情では、短里「一里=75m」で通用したものと思われる。

だから陸行一月=30日×50里=1500里を、

陳寿は伊都国-邪馬台国間の里数として採用し、

『魏志倭人伝』に「郡より女王国に至るには萬二千余里」と書いたのである。

 

因みに私は、【反時計回り連続説】により、

不彌国から邪馬台国へ至る道程の通過国を全て列記することが出来るので、

この道程を以下の地図で示すことが可能である。

つまり魏の正使・悌儁と一大率等が辿った当時の街道は、

伊都国―邪馬台国=千五百里(一里=60~90m:90~135㎞)とみて、

魏の正使・悌儁等が引率した一大率と共に通過したに違いない、

各国の比定地と考えられる有力な遺跡や神社を繋げてみたところ、

 

伊都国・糸島市平原王墓

ー奴国・福岡市吉武高木遺跡

ー不彌国・福岡市博多駅前住吉神社

烏奴国・大野城市上大利遺跡

ー支惟国・三養基郡基山町宮浦千塔山遺跡

都蘇国・鳥栖市安永田遺跡

蘇奴国・久留米市高良大社

邪馬台国・みやま市女山神籠石=86.0㎞

 

となり、86.0㎞は千五百里(90~135㎞)にはちょっと足りないが、当時の道が

現在よりも大幅に曲がりくねっていたと考えられることから、十分に成り立つわけである。

 

 

 

ところで上記地図に一応邪馬台国比定地の候補地として、

吉野ケ里遺跡と平塚川添遺跡の位置を書き込んでみたが、

平原遺跡―日向峠―吉武高木遺跡―吉野ケ里遺跡=47.7㎞

平原遺跡―日向峠―須玖岡本遺跡―平塚川添遺跡=51.8㎞

であり、伊都国ー邪馬台国間の千五百里には、かなり足りない様である。

因みに私は、吉野ヶ里遺跡は姐奴国に、平塚川添遺跡は巴利国に比定している。

 

しかし、熊本県山鹿市を邪馬台国に置くと、

平原遺跡―日向峠―須玖岡本―山鹿市=98.3㎞

となるので、邪馬台国熊本県山鹿説も一応成立する。

山鹿(ヤマガ)も山門(ヤマカド)に近い名で、昔は(ヤマト)だったかも知れない。

私は山鹿も戸数七万戸の邪馬台国の一部を為していたと考えている。

狗奴国と倭国との抗争の地は、多分現在の田原坂辺りだったのではないか?

明治時代、西郷隆盛率いる薩摩軍と日本政府軍が西南戦争で戦った地である。

当に狗奴国と倭国の戦の再現ではないか?戦で死んだ霊が呼ぶのかもしれない。

 

これに対し、邪馬台国宇佐説は、

平原遺跡―日向峠―須玖岡本―宇佐神宮=129㎞となるので、

こちらは距離は範囲内だが、方向が東となり、やはり原文の改変が必要である。

 

 

 


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