1960-70年前後の松竹新進監督たちは和製ヌーベルバークともいわれ、一世を風靡した。その一人吉田喜重監督作品に「秋津温泉」がある。新子役の岡田茉莉子と、周作役の長門裕之との絡みが生々しく迫ってくる。



    昭和20年、東京の学生だった周作は、岡山県山中の秋津温泉に流れ着いた。そこで、秋津荘の一人娘、新子と出会う。病に体を蝕まれていた周作は生きる希望を失っていたが、彼女の快活さに打たれ、生きる力を取り戻す。






  しかし、何年か経って、再び秋津荘を訪れた彼はすっかり自堕落な男になっていく。


      新子に「一緒に死んでくれ!」と訴える。周作の愛を確かめた新子は、彼の願いを受け入れ、一緒に川原に向かったのだがーー。


   まずこの作品、メロドラマの楽しさを味わさせてくれる。美しい岡田茉莉子は見飽きない。ワンカットごと表情が豊かに変わり、女の性(さが)の切なさを見事に演じる。




    メロドラマは、普通言われるような荒唐無稽な感傷的見せ物ではないという説がある。イギリス人学者、ピーター・ブルックスの『メロドラマ的想像力』(1976年)という小説論では、バルザックやディケンズなど19世紀の小説をメロドラマ的な想像力として見直そうというもの。まさにこの映画などその類に入れられよう。



    その他の吉田作品「ろくでなし」「告白的女優論」「嵐が丘」などもお勧め。


   吉田喜重は同じ松竹ヌーベルバークと並び称された大島渚とは映画に対する考え方において相容れなかったようだ。お互いの作品をほとんど見ようとしなかった、と追悼文に書いている。




       ただ「メロドラマ的想像力」という点では、吉田喜重が軟派のメロドラマなら、大島渚は硬派のメロドラマを体現していたのでないだろうか。

  (岩田 誠)