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ネテモサメテモ

役者やってます。現在フリーです。
良い年した大人が恥ずかしげもなく夢や野望を語りたい。地に足つかないフワっとした大人の希望の星になりたい。そんなブログ

こんばんは。
またちょっとご無沙汰してしまいました🙇
本日は長文注意です。
そして震災当時のことなどが出てきますので、苦手な方やPTSDなどがある方は戻ってください。

年内最後となりました、舞台公演
『パコと魔法の絵本』が12月3日、無事に上演を終えました。今回は、震災復興のボランティアの一環として、地域の皆様に演劇をお届けすると言う趣旨でした。

2011年の震災から、6年経ってお恥ずかしながら初めての宮城県へ参りました。
当時の爪痕はもちろんながら全然分からないのですが。それでもまだまだ色々なことが復興途中なわけでして。

今日はその辺りのことも含めて、私が感じたことをお届けしたいと思います。


バスで出発したのは1日の23:30過ぎ。
運転手さん、2名も勿論ボランティアです。
今回は《東北ファミリア》と言うボランティア団体さんに参加させて頂いています。

途中休憩を3回ほど挟みながら、6時過ぎに宮城県に入りました。

目的地に向かうまでの途中にある、被害の大きかった場所を見学しながら行きました。


まずは、石巻市釜谷地区の大川小学校。
SNSでは、間違えて大岡小学校と書いてしまいました。本当にごめんなさい。
震災遺構として保存されています。

北上川の河口4㌔のところにあり、川と太平洋に挟まれた三角地帯になっていたそうで、その地域の避難場所に指定されていたそうです。

被害の全容はインターネットにも多く載っておりますが

私達は、概要をドライバーさんから伺いました。
もう一度言いますが、こうした説明をして下さったドライバーさんは、ボランティアの方です。参加者のために、こうした説明をして下さるのは頭が下がります。

全校児童の7割にあたる74名の生徒さん
職員13名中、10名が亡くなった学校です。
津波は来ないと予想が以前からされていたものの、実際には川に木などが沢山流れてきてしまい、堰き止められ、溢れ出したと言うような状況だったそうです。


入るとすぐに、献花台と言うのでしょうか。
鎮魂の鐘があり、お線香を上げる台などがありました。お地蔵様が沢山あり、私達も手を合わせてから見学させて頂きました。

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半円のモダンなデザインの校舎だったそうです。
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生徒さんが少ないこともあるかもしれませんが。
関東の学校に比べると、階数が少ないことが分かります。
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渡り廊下です。
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中庭では、お花見をしたり、一輪車で生徒が遊んでいたと記した説明のボードもありました。
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残っている柱も黒板もあります。
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学校のすぐ裏は山でした。高い塀で遮られていたわけではなく、学習の一環でよく行くこともあるようでした。助かった生徒さんはこちらに逃げたそう。運命の別れる場所がそう離れていないところに存在するということに言葉も出ません。


また、残った校門と共に慰霊碑が建立されていました。そして、敷地の至るところに説明のボードが設置されておりました。

その中で、とても印象的だったのが。

【津波発生から最初の生徒が移動した距離、150m】
【津波発生から校庭到達までの時間1分】

と言う文言でした。
1分て本当にあっという間ではないですか。
初動が全てを左右すると言っても過言ではないのだなと改めて認識させられました。


見学を終えて、出ると学校の前に、積石が沢山ありました。
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こういうのです(これはイメージ画像)

これもここを訪れた人達が自然に行っているそうです。子供たちのことを思うとそうした衝動に駆られると言うのは良く分かりました。


道すがらは関東の人間からすると一見長閑だなと言う印象を受けます。
高い建物も、ともすれば色々なものがないからです。

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でもそれは、津波で全て流されてしまったから。
街がなくなってしまったからです。
防潮堤を高くするための工事が行われていますが、ご覧の通り、全て完成するにはまだまだ年月がかかりそうです。

そして、有名な南三陸町防災対策庁舎もバスで通りました。現在、付近の道路が工事をしているため近くに寄ることは叶いませんでしたが、こちらも震災遺構です。
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現在の姿。赤と白のコントラストが印象的です。
もちろん、震災直後とは変わっています。


その後、志津川と言う地域を通り、午後にお世話になった歌津の復興支援センターに入りました。
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もともとは保育園だったところが移転するのに伴い、ボランティアの団体さん達が地域に働きかけてこのようなセンターになったそうです。
後ろ姿は一緒に行ってた浮谷君です。


地元の方のお話も色々聞けました。
仮設住宅に住まわれている方はだいぶ少なくなったけれど、この何年かで孤独死のようなことが年に数回はあったこと。残っている方はご高齢の方達ばかりで行く先がないことなど。

確かに高齢者の方の震災後の生活は厳しいのだろうと思います。住宅ローンは組めないだろうし…自分達だけになってしまったら行くところを探すのは難しいのかもしれません。
話を聞けば簡単に分かることなのに、こちらに居ると思いつかなかったり、忘れたりしてしまうことです…。


2日目は歌津中学校の先生に当時のお話を伺いました。
卒業式の前日だったそうです。学校には全生徒が在校していて、皆さん無事だったそうですが。
家族、親戚、近所の人、顔見知りの人と自分達が触れ合ったことのある人全員が無事、と言う生徒さんは居なかったそうです。
どうしても卒業式をやらせて上げようと体育館ではなく各教室で避難してきた人を休ませたことからスタートしたそうですが、広域避難場所ではなかったので、布団や水の備蓄もなく、電気を使わずに動くストーブは2台しか無かったそうです。
赤ちゃんやご高齢の方にそれらを譲り、生徒さん達は学校中の布を集めてみんなに配ったりしたんだそう。因みに一番暖かいのは暗幕とのこと。
体育館にあるやつですね。劇場にもありますね。
2,3日後におにぎりが1人1個と配られて、高齢者から配ったら約束を守らずに生徒さんの分が足りなくなるような悲しいことが起きたりもしたそうでした。

その先生のご主人は防災対策庁舎にお勤めをされていて随分の間、安否が分からなかったそうで。
お二人とも、自分や自分の家族をさて置いても動かなければならない、すべきことが沢山あって。
どのような気持ちで過ごされていたのだろうかと思います。

ゆうに1ヶ月以上は、お勤め先の中学校に居たそうです。無事に家族と会えて迎えに来て帰って来ても、街にはまだご遺体が沢山あってそれを見せられないとまた避難生活をする方がいたり、そして。その当時は、ご遺体が見つかると皆で『良かったね』と言ったそうです…。これでやっとちゃんと供養が出来る、それで良かったねと言ったんだそうです。南三陸には【津波てんてんこ】と言う言葉があるそうで、【てんてんこ】はてんでばらばらみたいな意味かな。津波が来ると分かったら、誰かを何かを探したり案じたりせず、とりあえず逃げろ!と言う言葉です。生きていれば後で必ず会えるから、まずは逃げろなんだそう。
そして、悲しいことに亡くなった人の中には家族を案じて戻ってしまったり、家に大切なものを取りに帰ってしまった方が多かったのとのこと。
私達もきちんと避難する場所や落ち着いたら家族で落ち合う場所など、改めて決めておいた方が良いのだなと考えさせられました。

歌津中学校の生徒さんにも会いました。お話こそしませんでしたが、あとから聞けば御家族を亡くしてる子もいたそうで。こんな言い方が合ってるかは分かりませんが、普通の顔して笑ったりお喋りしたりしていましたが。
きっと、癒えぬ傷があるのだろうなと思います。

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支援センターの周りは本当に静かで空気が澄んでおり、夜更けに一緒に参加していた光希↓
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金髪野郎と。
あんな風に地震があって、津波が来ても、何にも変わらずに朝が来て、夜が来るのだねと話をしました。因みに彼も宮城県出身で震災経験者です。

引き続き、翌日の先生の話で
『翌朝は晴れた。こんな日でも朝は来るのかと思った』と仰っていて。
1度訪れた私でさえ思うのだから、いかほどの気持ちで先生は思ったのだろうかと考えると涙なくしては聞けませんでした。

『悲しみが癒えることはありません。違う形になってまだ現れます』とも仰っていました。

本当にそうなのだと思います。
街がなくなり、新しい形に変わることはふるさとを失ったようなものでもあり、やはり忘れられてしまうことが、一つの時事の事として片付けてしまうのが。一番に酷なことなのだと思いました。

終わることはないし、忘れることはないし、まだ復興の真っ最中であり、1人1人が奮い立たせて日常を送っていて。思い出を語れば6年経っていても涙を止めることが出来ないほどの感情を揺さぶられる、それだけの大きな。ことだったのです。

現地で私達を待っていてくれた東北ファミリアの鈴木さんが、
『被災地は日本で、被災者は日本人全員です』
と仰っていたことが忘れられません。

離れているから、無事だったから被災者じゃないではないんです。
世界からみたら日本と言う国の中の悼むべき出来事として、皆が心を痛めたのです。

確かに世界発信の《pray for Japan》をよく見かけたけど《ガンバレ、東北》と地域を区切っていたのは日本発信でしたね。

現地の人の言葉を借りるならば、私達もまだ復興の途中なのです。
地域の人達だけが頑張るんじゃなくて、皆で復興を進めて行くべきだと言うことがよくわかりました。


ですから、現状は。
私達日本人が、被災した人としなかった人とで自分たちを分けていることが問題なのだと思います。九州でも被害があったりしたことで、もう東北じゃなくても…みたいな雰囲気があったりもしたそうで。
けど、そうじゃないよね、と。
どちらも、私達の国で起きたことで、どちらも皆で助け合うこと、なのだと改めて意識を変えて貰ったような気がします。


どうしたら良いかは私には分かりませんが。
もう少し復興の現状は報道もして欲しいし、美談を取り上げるのではなく、問題点なんかもジャンジャン取り上げて、皆で考える!と言う形にすれば良いのになとは思います。
この辺りのことは話が逸れるから、一旦おきますが。


被害がなかったから関係ない、ではなくて。
知り合いじゃないから、ではなくて。

私達、日本の出来事。

そう、皆さんに考えて貰えれば良いなと、思います。


明日はボランティアの話を書きます。
これまたお恥ずかしながらの人生初ボランティアですが。考えが一変しました。
読んでちょっとでも考えが変わってくれる人が居たら良いなと思います。


長くなりましたが。
最後にもう一度。
私達は全員まだ復興の途中です。


忘れないでいましょう。

それでは、またね🎀