歌詞を持つ作品は、その言語を理解出来ない場合は聴かないという方がいらっしゃいますが、何というもったいの無い事をされるのでしょう。みすみす目の前の宝の山を捨て去って仕舞うとは。
合唱曲にせよ独唱曲にせよ、歌詞を持つ作品にも持たない作品と同等に魅力的な作品が山程在るのです。しかも人声という楽器は他の楽器には見られない独自の大変な魅力を持っています。その宝の山を単にその歌詞を理解出来ないという一因をもって全て捨て去って仕舞うなんて余りに不合理でナンセンスな愚挙としか言い様が有りません。しかも、その歌詞を持つ作品の内には音楽史上最も著名で、人気かつ評価の高いモーツァルトの「レクイエム」やベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」、さらにはJ.S.バッハの「マタイ受難曲」や「ミサ曲 ロ短調」も含まれるにもかかわらず捨て去って仕舞うというのでしょうか。
確かにその作品の歌詞を理解出来たほうが出来ないよりも、より一層の感銘や充実を得られるのでしょう。しかし歌詞を理解出来なくとも少なからぬ感銘や充実を得る事は可能なのです。全く、歌詞を持つ作品にどれ程優れた作品が多数存在する事か。それらを捨て去るなんて考えられません。元々、芸術とは普遍を目指す物。真に優れた作品は必然的に絶大な普遍性を持つに至ります。優れた芸術作品は言語や文化の壁を越えてゆくのです。(流石に文章作品では無理かも知れませんが、そこは翻訳という便法を利用すれば良いでしょう。つまり作品の内容は普遍的であるという事です)
美術の世界では知識が無いと作品を楽しめないと言う専門家が居ますが、少なくとも音楽の世界ではその様な問題は有りません。
芸術、少なくとも音楽は作品が全てです。作品にまつわる諸々の情報や知識は飽くまでも知的好奇心を満たす物であり、それ自体を副次的に楽しむのは御自由ですが、我々各人が作品の評価をする場合には一切関わりが有りません。作曲者の人間性、時代背景、地域特性といった物は作品への感想、評価とは完全に無関係です。作品を評価する場合、情報の全ては作品の内にのみ所在するのです。全ては作品の内にのみ在るのです。
海外ではどうなのでしょう。ミサ曲やレクイエムなどの宗教作品は基本的にラテン語の典礼文に作曲者が曲を付けるのが一般的ですが、少なくとも欧米ではカトリック教徒が多いせいなのでしょうか(プロテスタントのJ.S.バッハがミサ曲を書いた理由は謎とされているそうです)。恐らくカトリック教徒は毎週日曜に礼拝の為、教会を訪れ、讃美歌(何語か知りませんが)やミサ曲を歌うのでしょうから、少なくともその範囲でのラテン語は理解しているのでしょうが(例外として著名であるのはヤナーチェク作曲の「グラゴール・ミサ」やブラームス作曲の「ドイツ・レクイエム」などが良く知られています)。しかしイタリア語を理解出来ないドイツ人がそれを理由としてイタリア・オペラを鑑賞しないとは考えにくい様に思います。
又、クラシック音楽を「教養」や「知識」として捉えている方にとって、当ブログは一切役に立ちません。どこまでもひたすら良い音楽、御自身に適合する音楽を求めておられる方々にとって役に立つ事を目的として書く物です。すなわち、音楽から得られる「瀉泄効果(カタルシス)」を得る事のみを目的とします。
さらに、歌劇は演劇としてでは無く、飽くまでも音楽として捉えます。従ってD.V.D.などの映像商品も扱いません。これには視覚情報が在ると音楽への集中力がその分そがれるという問題もはらんでいます。ただし、歌詞を適時的に知りたいという方には字幕の表示される映像商品は役に立つでしょう。その場合、「日本語字幕付き」の表示の在る事を御確認下さい。以前はC.D.でも「歌詞対訳付」という商品が一般的でしたが、コストが掛かる為か、ある時から付かなくなりました。それに普通の商品であれば関税などの都合で国産品よりも輸入品の方が高額であるのが一般的かと思いますが、何故かC.D.は海外盤の方が安い為、筆者は海外盤を多数取り扱う東京都の店へ赴く様になってから海外盤を中心に入手する様になった事も有り、どの道歌詞や解説とは縁が無いのです(少なくともクラシック音楽の業界では「輸入盤」という語は海外盤を日本国内でライセンス契約で製造、販売する物を指す様です)。
なお、ピアノ伴奏の歌曲や合唱曲、あるいは無伴奏の合唱曲は当ブログでは扱いません。流石にこの分野は歌詞を理解出来ないと厳しく、筆者がほとんど手を出さなかった為です。管弦楽伴奏の歌曲は扱います。