番外編 第四部第五章 遠い日1/2
「やっぱり見当たらないですね‥跋難陀様のお名前」
部屋の机に積み上げられた使用人台帳をランダムに開きながら、波がうーんとため息を吐いた。
「ここ、あなたのはあったわ」
「どこですか、あ、本当ですね、懐かしい。私の入った時は同期が少ない年で、苦労しました」
跋難陀の持っている台帳に掲載されている自分の名前や経歴を確認しながら、えー若いとか言って彼女ははしゃいでいた。
「きっと手違いでお名前が載っていないだけですよ。もしくは何かご事情があって、非正規の手続きでお城にあがられたのでは」
これだけ探したのですからもうやめましょうよと言って、波は自分が開いている台帳を閉じた。
「非正規の手続きって?」
「うーん、何か基準を満たしてなくて、でも特例で雇われたとか?」
彼女の適当な返事を受けて、跋難陀の心が少し重くなる。
(訳あり‥って事?私には家族もいない上、雇われた時の記録もないって、一体‥)
少し前に遭った事故とやらで記憶を失ってしまった跋難陀だったが、周りに自分の昔を知る人はおらず、また身寄りもないと聞いた。
だから今回はわざわざ使用人の経歴が載っている台帳を人事管理の担当者から借り、波に手伝ってもらいながら自分の記載を探していたのだ。
しかし期待も虚しく、跋難陀の記録はその台帳にすら掲載されていなかった。
「経歴なんていいじゃないですか。このお城に勤められているのだから、ちゃんとした家の方ですよ。それよりもうすぐ出発されるのですよね、そろそろ荷造りを終わらせませんと」
「あ‥そうだった」
後ろ髪を引かれるが、こんな事をいつまでもしている訳にはいかなかった。
跋難陀は開き持っていた台帳を閉じて机に置くと、波に手伝ってもらい嵩張り過ぎないように自分の荷物をまとめた。
それが終わると、波は波で自分の里帰り用の荷物をまとめていく。
「では跋難陀様、行ってらっしゃいませ」
荷造りも済んでからしばらく後。
跋難陀を見送りながらニコニコと笑っている波から、私も実家に戻りましたら例の件をしっかり祈願して参りますと耳打ちされ、跋難陀は困惑の笑みを浮かべつつ彼女に手を振り別れる。
それから鐘馗と合流して、共に籠に乗って城を出た。
私的な外出だからこじんまりとした一行ではあるが、それでも供は御者など先導の者に加えて警護の者が後ろからずらずらと続いている。
(お城の外に出るの、初めて。何だかドキドキするわ)
周囲を見渡しながら、初めて見る城外の景色に跋難陀の気持ちは弾んでいた。
いつも見ていたお城の庭だって同じ屋外のはずなのに、今日の方が陽の光を眩しく感じる。そこらの草花に降りた露すら、宝石みたいに煌めいて見えた。
‥‥実は今日は、以前から約束していた、都にある梅花林を鐘馗と一緒に見に行く日なのだ。
以前、城の敷地内に咲く早咲の梅の花を見て喜んだ跋難陀を見て、鐘馗が外に連れて行ってくれるという。
少なくとも記憶を失ってからは跋難陀はこれが初めての外出となるし、何より愛する鐘馗と一緒なので、自らの過去が分からない件で暗くなっていた先程の気持ちも今は吹き飛び、思わず口元が緩む。
しばらく移動した後、やがて跋難陀はある里に辿り着いた。
「この先に、屋敷がある」
その屋敷を挟んだ反対側が広大な梅花林になっていると、鐘馗が何処かを指差しながら教えてくれた。
鐘馗の差した指の先を跋難陀が見ると、確かに彼方に小さくお屋敷らしいシルエットが見えた。
どうやらその屋敷も鐘馗の持ち物らしく、そこが今日の宿泊地になるらしい。
(素敵なお屋敷)
やがて到着したその屋敷はそこそこに広くて立派だった。普段暮らす城と比べてここは完全な平屋なのが珍しくて、跋難陀はキョロキョロと屋敷を見渡した。
荷物の解梱はここの使用人に任せれば良いと鐘馗に言われたけれど、よく知らない人に荷物を触られるのが気になった跋難陀は結局鐘馗の荷物も自分の荷物も、ほとんどを自分で解いた。
それから屋敷の片側は鐘馗の言う通り梅の木がたくさん生えていて、庭からもよく見えたので跋難陀は嬉しかった。
荷解きをして落ち着いた後は、鐘馗に促されるまま屋敷から出て梅花林の方に二人で少し歩く。
徒歩ですぐ到着したそこには色とりどりの梅の花が蕾混じりに咲いていて、跋難陀たちを華やかに出迎えてくれた。
「城のより良いだろう」
「両方とも、とても綺麗です」
まだ春が来る少し前の季節。
合わせて空に向けた両の手のひらで風に舞い散る花びらを受けながら、寒さで跋難陀の息も白くなる。
ひとしきり梅の花を愛でた後、寒くなってきたから跋難陀は鐘馗と共に屋敷に戻った。
屋敷の周辺は人も少なくお城よりも気を遣わない環境なので、跋難陀はその後の日中は部屋で鐘馗に碁など相手してもらいながら楽しんだ。
「あ、もう負けました‥。鐘馗様、普通は手加減して勝たせたりするんですよ」
「それではつまらぬだろう」
普段は優しいのに、勝負事では鐘馗は力を抜いてくれなかった。
跋難陀も負けず嫌いなので、何度も何度も負けた後、最後は碁石をたくさん置かせてもらうハンデを貰い、形だけだが無理矢理勝ちに持っていった。
「私だって周りの方に、碁はとても上手いと言われていますのに」
「余は負けた事がないから」
慣れた手つきで並べられた碁石を碁笥に仕舞いながら、鐘馗は余裕の笑みを見せる。
勝負を挑むのをお終いにしてからは、鐘馗に指導してもらいながら跋難陀は碁を打った。
(それにしても‥今日もとっても、お美しい)
跋難陀は碁石を打つ時の鐘馗の真剣な眼差しをチラッチラッと隠れ見ては、密かに頬を染めた。
普段と違い鐘馗に関わる人も仕事もないから、今だけは彼の時間を独占出来ている気がする。
だからこの平和で幸せな時間を噛み締めないと‥そう跋難陀は思った。
「随分楽しそうだな」
口元を緩ませながらぱちっと碁石を打ち返す跋難陀を見て、鐘馗が笑った。
「楽しいです。こんな日々がずっと続けば良いのに」
「ずっと続く」
跋難陀の呟きを拾って即答した鐘馗が何だかおかしくて、跋難陀はくすりと笑った。
「それにしても、あちらこちらに人がいて落ち着かぬ」
しばらく後。
庭と部屋の間の板敷に座って憮然と外を見ている鐘馗の声を聞き、跋難陀はぱちくりと目を瞬かせた。
「そうですか?そんなに人がいる感じもしないですけれど‥」
「外出しても、これでは城と大して変わらぬ」
(えー、そうかな、お城より人はかなり少ないけれど‥)
薄着のまま外気に触れる鐘馗を気遣って彼に上着を掛けながら、跋難陀は心の中でそう呟いた。
今いる使用人たちは全て元々この屋敷で働いている者たちで、お城からは誰も同伴していない。
城の者が来ると息苦しくなるからと、鐘馗がそれを拒んだからだ。
ただし隣国との戦中なのが影響したのか、警護だけは鐘馗の意に反しそこそこの人数が付いて来た。
「奴らがあちこちに控えているあの気配が、気に入らぬ」
そしてそれが、どうも鐘馗の気に入らないらしかった。
この屋敷だってそこそこには広いが、あの広大な城と比べてしまうと面積の差は歴然だ。
多少配慮されて彼らに距離を取られているとは言え、庭先や門の付近に潜む警護の気配が鐘馗にとっては近すぎて、嫌らしい。
「それでもここはお城とは環境も全然違いますし、私は嬉しいですが‥」
警護の方くらい良いじゃないですかと跋難陀はフォローした。
自分もいち使用人だし、職務を全うしようとする彼らの立場を考えると、こんなに邪険にされているのには同情してしまう。
「そなたを連れて、このまま民の住まう場所にも立ち寄ろうとしていたのに」
しかしため息と共に漏れ聞こえてきた鐘馗のその呟きに、跋難陀の耳が思わずぴくりとなった。
「民、ですか?」
「民の舞楽とやらを見たいと、そなたが言っていたから」
その言葉を受けて、跋難陀の表情が俄かに色味を帯びる。
「あの、それって、もしかしてこれですか‥?」
思い当たる事があって、跋難陀は部屋に置いてある自分の荷物を入れた箱に掛け寄ると、中から巻物を一つ取り出して、戻って来てそれを鐘馗の目の前でくるくると展開した。
巻物には都の民の暮らしがイラストで描かれていて、その中の一つに行事で奉納される寺院の演舞の絵があった。
つい最近、この巻物を読んでその描写に惹きつけられた跋難陀は、お城の外にはこんな面白そうなものがあるんですねと鐘馗に絵を見せたのだった。
さらにその絵がとても気に入ったので、空き時間に読もうと今日もわざわざお城から持ち出していた。
鐘馗は目の前に広げられた巻物を見て、頷いた。
「あの、嬉しいです。是非‥見に行きたいです」
「しかし奴らを連れては行けぬだろう。目立ちすぎる」
「あ‥」
その言葉に跋難陀はハッとした。
確かに都にある寺院ならばきっと一般の民の領域だろうから、そこに警護の兵たちをずらずら引き連れるのはかなり目立ちそうだ。
そしてそこから鐘馗の正体が明らかになってしまえば、騒がれて演舞見学どころでは済まない気がする。
「城からも付いて来た奴らだ。放っておいたら明日も纏わり付かれそうだな」
まあどうにかしようと、そう鐘馗が呟くのを聞いたのが、日中の話。
その日の夜。
寝ていた跋難陀は何かの拍子に覚醒して、瞼を開いた。
意識を集中すると、暗い中、室内で何かが動き床が軋む気配がする。
(あれ、鐘馗様は‥)
隣を見ると、先程まで共寝していたはずの鐘馗の姿が見当たらない。
代わりに跋難陀の身体には、彼が着ていた着物が何枚か掛けられていた。
(鐘馗様はどこに‥)
跋難陀は起き上がると近くに落ちていた自分の着物を身体に羽織りなおし、鐘馗の姿を探した。
見ると庭に面する扉が一枚だけ開けられていて、そのすぐ近くの戸板に腰掛けている鐘馗の後ろ姿が暗闇の中でぼんやりと視認出来た。
そっと歩いて鐘馗に近付こうとしたが、途中でギシ、と床が軋む音がしてしまい、鐘馗がこちらを振り向いた。
「起きたのか」
「はい。あの‥鐘馗様は何をしておいでで?」
見れば鐘馗は、いつの間にか髪を高い位置で一つにまとめ上げ、見慣れない着物に着替えていた。
(あれ‥?鐘馗様にしては、だいぶ質素なお召し物‥)
跋難陀は首を傾げた。
どうして鐘馗はこんな時間に起きて髪をまとめ、えらく質素な着物に着替えているのだろうか。
それにその隣には、別の着物などを収めているらしい箱も置いてある。
そう言えば、鐘馗の荷物を解いた際にこの箱も見かけた気がする。
「もうすぐ夜が明ける」
そう聞いて、跋難陀は合点がいった。
さすがに月明かりだけでこんなに明るいはずはない。外は一見真夜中に見えるが、寝る前と比べると空が薄っすらとだが明るくなっている気がする。
でもまだ朝と言うには暗すぎて、空には有明の月も輝いていた。
「そなたが起きたなら、もう出よう」
鐘馗は隣に置いてあった箱から女性用の着物を出すと、それを跋難陀に渡した。
着物は小袖と袴で、鐘馗の物と同じく普段の跋難陀の成りと比較するとかなり質素な物に見えた。
「こちらに着替えを」
(‥着替え、こんな時間に?)
動きやすいように髪も束ねるよう言われて、跋難陀は思わず目をぱちくりとさせた。
「昼間、舞楽を見に行くと言ったであろう」
「あ‥。もしかして、それでそのような着物をお召しなのですか」
「普段の成りではさすがに目立ちそうだからな」
ここで鐘馗の衣替えと、跋難陀にも着替えが渡された理由がようやく判明した。
(そうよね、私はともかく鐘馗様は変装して行かないと騒ぎになりそう)
そう思いながら同時に、一般の民に近い格好をして鐘馗と都をそぞろ歩きする姿を想像してしまい、跋難陀の胸は俄かに高鳴った。
それに、下々の民の町になど降りた事もなさそうな鐘馗がわざわざ自分のためにそんな所に行ってくれるのだと思うと、何だか面映い気持ちにもなった。
「警護の連れて来た馬を一頭連れて、裏から出る。あの者達に悟られぬよう」
聞けば、目的地までは徒歩では無理だが、馬ならばそこまで時間をかけずに着くらしい。
そしてこの発言で、わざわざ夜明け前のこんな時間に鐘馗が起きていた理由が分かった。
あの者達とは、警護兵を指すらしい。
つまり鐘馗は城から付いて来た彼らを、巻きたいのだ。
「余たちの行き先は誰にも知らせておらぬ」
本来ならばもう少しのんびり行くはずだったのに、城から付いて来た警護兵達のせいで予定が狂ったと鐘馗はため息を吐いていた。
「わかりました、私もすぐに着替えます」
跋難陀は鐘馗から受け取った小袖と袴を持って、適当な几帳の後ろに隠れて急いで衣服を替えた。
鐘馗から渡されたそれらは綺麗に色染めしてあり、民の召物としてはひょっとして良すぎるのではとも跋難陀は感じたが、これしかないしと気を取り直し、着付けを終える。
「お待たせしました」
髪も簡素な下げ髪にして一つにくくり鐘馗の元に跋難陀が戻ると、鐘馗ももう準備を終えて待っていてくれたから、誰かを起こさないように二人で裏口からそっと出て馬に乗る準備をした。
鐘馗が選び連れてきた馬は精悍な顔をした青鹿毛で、警護兵が連れてきた中でも一番大柄の馬だった。
「跋難陀。これを渡すのを忘れていた」
馬に乗る直前、鐘馗は思い出したように袖の中から何かを取り出すと、跋難陀の手首にそれを付けた。
「あの鐘馗様、これは‥」
手に付けられた物を見て、跋難陀はやや困惑した。‥‥手首には、えらく高価そうな紫水晶の数珠が付けられていた。
「そなたに似合いそうだからつくらせた」
「あ、ありがとうございます‥こんな上等な‥」
紫水晶の数珠は僅かな光にすら反応し、跋難陀の腕でキラキラと輝いていた。
(これ、一体いくらするんだろう‥‥)
贈り物はもちろん嬉しい。
が‥どうしてよりによってこのタイミングで、しかもこれなのだと跋難陀は思った。
せっかく着物を替えても、こんなのが腕から見えたらとても一般市民には見てもらえないのではないだろうか。
困惑しながら跋難陀が数珠を覗き込むと、数珠は水晶部分に一つ一つ丁寧に難しい透かし彫りが施されていた。繋ぎにも琥珀、銀細工がふんだんにあしらわれている豪華な物だ。
(鐘馗様が好きそう‥)
いかにも豪奢好みの鐘馗らしいデザインだと跋難陀は思った。
(まあ‥袖の中に隠せば見えない、かな?)
着物の袖口で数珠を隠し覆ってそう思い直した瞬間、今度は纏めた跋難陀の髪に、鐘馗によって何かを付けられた。
「そなたのは予想以上に地味な着物だ。これもつくらせておいて良かった」
そう言われ、デザインを確認しようと跋難陀が一度髪から外して見ると、それは数珠とお揃いの紫水晶で造られた髪飾りだった。
女性専用の装飾品だからなのか、こちらは数珠をさらにパワーアップさせた綺羅綺羅しいつくりだ。髪飾りだから、数珠のように衣服の中に隠す事も出来ないだろう。
「馬上は冷える。これも」
続いて鐘馗は部屋を出た時からずっと腕に掛けていた羽織を、自分と跋難陀にそれぞれ纏わせた。
(何だろう、ふわふわとして暖かい)
跋難陀が自分に掛けられた物を確認すると、それは中綿入りの羽織りだった。
何が入っているのか知らないが、中綿は軽くてふわふわしている。
対する鐘馗の物は跋難陀とほぼ同じデザインだが男性用に若干のアレンジを施されていた。
そしてお互いのそれらには金糸と銀糸の刺繍が全体に散りばめられ、また聞けば中綿は希少性の高い水鳥の羽らしい。
「‥あの、鐘馗様‥。私たち、目立たないようにして行くんですよね‥?」
「ああ」
鐘馗は真面目な表情でそう返事をする。
(もう普通の民と思われるのは絶対無理‥)
鐘馗にサポートされて馬に乗りながら、跋難陀は心の中でため息を吐いた。
これでは、ただの変な格好をしている貴族の一行ではないか。
育ちの良い鐘馗は多分、民がどんなものなのか知らないのかもしれないと跋難陀は思った。
(まあ、でも良いか‥。こう言うところも、何だか鐘馗様らしいし‥‥)
なだらかな道の移動だと言うので、跋難陀はそのまま鐘馗の乗る馬の後ろに同乗させてもらい、落ちないよう後ろから、手綱を握る鐘馗のお腹に手を回してしがみついた。
意味の分からない変装になってしまったが、着替えたお陰で馬に乗りやすいのは良かったと跋難陀は思った。
(鐘馗様の体、暖かい‥)
それから、思いがけず鐘馗の背中に密着出来て、跋難陀は内心ドキドキした。
大柄の体躯に見合わず気性の穏やかそうな馬はパカパカと心地良い音を立てながら、のんびりと蹄を前に進める。
そしてその間にも月は薄くなり、先程まで暗かった空はいつの間にか薄青と薄橙色のグラデーションに染まり、鱗状の雲がその色の境目を美しく繋いでいた。
(綺麗‥‥)
馬に揺られながら、跋難陀は空を仰ぎ見た。
跋難陀の澄んだ青い瞳には、色変わりゆく空と、消え行く寸前の薄白い月が浮かぶ。
「それにしても、そなたに付いているあの者くらいは連れて来ても良かったな」
手綱を握って馬を歩かせながら、馴染みの使用人を一人も連れて来なかったのは不便だなと、鐘馗が呟いた。
「あの者とは、波ですか?」
「そのような名前だったか」
馴染みの者を誰も連れて来なかったために、荷物の解梱から着替えや馬への乗り換えなども自分たちで動かなければならず不便だったと鐘馗がぼやいた。
「あの子でしたら今回は駄目なのです。私がいない間はお里下がりしていまして」
「里下がりか」
「はい、何でも実家の屋敷近くに子宝祈願の寺があるとかで、そちらに行くと申しておりました」
「何故?」
「うーん‥それは‥‥」
跋難陀が口籠ると、鐘馗が心当たりに辿り着いたらしく口を開いた。
「‥まさか、そなたか?」
そう言われて‥跋難陀は顔を赤くして‥小さく俯いた。
「‥あの子は良い子なのですが、その‥すぐに考えが飛躍してしまうのです」
波は、跋難陀と鐘馗が結ばれてからと言うもの次の目標は子供だと言い出し、騒いでいた。
そして今回、跋難陀が泊まりがけで留守にすると知るや、跋難陀の止めるのも聞かず、波は彼女の実家近くにあると言う地元民に大人気の子授けの寺に参りに行ってしまった。
「あの、もちろん私がそんな事願っている訳ではないですよ。全てあの子の独断で‥」
手綱を握りながらこちらを振り向いた鐘馗と目が合ったから、跋難陀はさらに赤くなり慌ててそう弁解した。
「そなたの意思は入っていないと?」
「ええ」
図々しいと思われるのは心外だったから、跋難陀は少し強めに返事をした。
「そうか、そなたは余の子を産むのがそんなに嫌か」
(えっ‥‥)
しかし予想外な台詞と共に、鐘馗から意地悪そうな笑みが跋難陀に届けられた。
もしかして‥‥彼の気を悪くさせてしまったのだろうか。
「な、何て事おっしゃるんですか‥そんなはず、ないではありませんか」
跋難陀は慌てて首を横に振って否定した。
「では、違うのだな」
「はい」
「では、欲しいのだな」
「そうです‥え?」
跋難陀が目を白黒させて声を上げるのを見て、鐘馗はちょっと笑っていた。
「‥ずるいです鐘馗様。誘導して言わせるのはいけません」
鐘馗のからかいに少し頬を膨らませつつ、跋難陀は鐘馗の身体にそのまま片頬を密着させた。
鐘馗は口元を緩ませたまま手綱を持ち直し、前を向いた。
「では、鐘馗様はお嫌じゃないんですね、私が‥」
「どうして余が嫌がる」
「‥そうですか‥」
最初は全然違う話題だったはずなのに、一体どうしてこんな話になったんだっけ‥。
鐘馗の背中に頭を預けてぼんやり考えながら、鐘馗もきっと馬上の暇潰しに冗談で話しているんだろうからと、跋難陀も少しだけ頭の中に空想の未来を描いてみた。
「では私は‥五、六人は子供が欲しいかもしれません」
「随分賑やかだな」
背中を向けたまま、鐘馗が笑う。
「そうですか?波のところなんて八人兄弟ですよ」
「まあ何人でも良いが」
「家族がたくさんいたら、楽しいと思ったんです」
その瞬間、跋難陀の台詞に反応するように、それまでゆったり歩いていた馬がぴたりと歩みを止めた。
「家族か」
「はい」
事故で記憶を失ってから聞いたのは、ただ自分があの城に勤める者である事と、身寄りがないと言う事のみ。
だからいつか自分にも家族が出来たら賑やかでいいな、と心密かに跋難陀は思っていた。
馬は、歩みを止めたまま道に生えている草をのんびりと食んでいる。
鐘馗が手綱を引いてそれを戒めると、馬は再び、ゆるゆると歩き出した。
(あ、それにもしも子供がいたら、鐘馗様が私に興味がなくなってもお城から追い出されないで済むかもしれない‥)
跋難陀は心の中でそう閃いた。
正直あまり自分に自信がないから‥ずっと鐘馗の愛を得られると言う確信も、持てない。
哀れな打算だけれど、もし鐘馗との間に子供でも授かっていれば、いつか彼に愛想を尽かされたとしても、せめて元の通りの使用人としてお城の隅にでも置いてもらえるのではないだろうか。
(でも、もしもそうなれば‥)
しかし仮にそうなれば、自分はいつか鐘馗の隣に新しく迎えられる誰かを、遠くから見つめる羽目になるのだろうか‥。
跋難陀は、馬の歩行に合わせて揺れる鐘馗の背中の振動を感じながら、想像した。
もしも鐘馗の隣に自分ではない他の誰かが迎え入れられたら。
その人はやはり、自分が鐘馗に選んでもらえた時のように夢見心地に喜ぶのだろうか。
そしてその時自分は胸を痛めて、惨めな我が身の境遇を嘆くだろうか。
もしくは、取るに足らない自分の人生にも美しい思い出があるのだと、愛しい人とのかつてのひと時を胸に抱いて、残りの人生を力強く生きて行けるのだろうか。
鐘馗は子供の顔を見て‥そう言えば昔これを産んだ女がいたと、一度くらいは思い出してくれるだろうか。
それとも自分は、その存在ごと綺麗さっぱり忘れ去られてしまうのだろうか。
(いっそ今のこの時間を、箱に入れて閉じ込めておけたら良いのに‥‥)
かなしい未来は、考えたくない。
だから跋難陀は鐘馗の背中と心地良い振動に身を委ね、瞼を閉じた。
背中に当てた自分の耳を通して、鐘馗の心臓の鼓動がとくとくと小さく聞こえてくる。
鐘馗のお腹に回したこの両腕も、彼の背中にあてたこの頬も耳も、鐘馗の体温で温められてそこだけふんわりと暖かい。
(私、好き‥‥。このひとがとても、好き‥)
両想いなのに、まるで片恋をしている時のような切なさ。
春が来る前の早朝の静かなこの世界に、自分と鐘馗と、まるで二人だけになってしまったみたいに感じられる。
跋難陀は目をさらにぎゅっと瞑って‥鐘馗への想いを噛み締めた。
(この先もずっと、離れたくない‥)
このままずっと次の目的地にも着かなければ良いのにとさえ思わされる心地良い静寂に包まれて、跋難陀は永遠と鐘馗の心臓の鼓動を聞いていたかった。
「‥だが、子がいればそなたは余から逃げられぬぞ」
その時、突然前方からそんな声が降って来たものだから、跋難陀は閉じていた瞼を開いてその目を大きく見開いた。
「え‥?」
「どんなに余が憎いと思っても、離れたいと思っても、もう縁が切れなくなるのだぞ」
子供の父親なのだから。
そんな風に言う鐘馗はいつの間にか後ろを振り返って、真面目な顔で‥跋難陀を見ていた。
(縁が切れないって‥‥)
「鐘馗様‥‥」
跋難陀は一瞬言葉を失って、鐘馗の顔をまじまじと見返した。
「あの、鐘馗様。鐘馗様は‥‥時々、不思議な事をおっしゃいますね‥」
そうか?と鐘馗が言うのが聞こえる。
「はい‥」
(だって、まるで私が‥私の方が鐘馗様から離れると思ってらっしゃるみたいな言い方‥)
困惑する。鐘馗のこの前提は、一体何なのだろう。
どう考えても捨てられるなら鐘馗ではなくて、自分だろうに。
鐘馗がお城の梅花林で愛していると言ってくれだあの時。
あれだって今にして思えば、思い詰めて今にも告白を始めそうな女を哀れだと思って、優しい鐘馗が情けをかけてくれたのかもしれないのだ。
いや、時間が経てば経つほど‥そんな気がしてくる。
ふと跋難陀の頭に、以前鐘馗から聞いた台詞が浮かんで来る。
『そなたは余を嫌っていた。いつも憎まれ口を叩いていて‥‥』
そう言えば結局、あれらの発言の真意は何だったのだろう。
揺られる馬上でひとり考えたけれど、取り留めもない思考がいくつも風に乗って舞い散るばかりで、答えは出なかった。
「私から鐘馗様の元を離れるだなんてそんな事、あるわけないです。鐘馗様が私の手を振り解かない限り‥手を離されて‥いらないと言われるまで‥わたしは、ずっとお側にいたいです」
「‥そなたは、そう思うのだな」
鐘馗は前を向き直すと、跋難陀から回されている手を上から優しく握りしめ、そのまま片手で手綱を引いた。
「跋難陀、もう着く」
いつの間にか、目的地が見えて来たらしい。
(‥着いてしまった)
まだ話の続きをしたかったのに、鐘馗が思うよりもずっと自分は鐘馗が好きなのだと伝えたかったのに‥もう目的地に着いてしまった。
跋難陀は鐘馗に回した両手の力をギュッと強めて、名残惜しくその身体にすがりついた。