四 三界の自在主
悟りを得たのち、障礙をもたらす魔を征服した人は、三界の自在者になるというのが、次の段階です。
<補説>すらっと読んでしまいそうですが、「悟りを得たのち、障礙をもたらす魔を征服」って、逆ではないの ???。「降魔・成道」でしょ !!!。疑問として心にとめて先を進みます。
三界の自在主とは、欲界、色界、無色界の三界(= 生存活動)において、自在に活動することのできる王となることをいいます。一たび三界の自在主となれば、すでに自己中心的な欲望を超越しておりますから、その活動の対象が自己以外に向けられることはいうまでもありません。大乗仏教において不可欠である利他行が、ここにクローズアップされるのです。一切の有情を救済し、利益を与え、安楽ならしめることが、最勝の究竟(くきょう)の完成(成就)であると、『理趣経』には説かれています。
<補説>最勝の悉地(uttamasiddhi)とは、『理趣経』本文でいえば「住著流転(ちゅうちゃくりゅうてん)・常処生死(しょうしょせいし)」([他者の]輪廻的生存がある限りそこに処して)であり、無住処涅槃と同義です。『理趣経』はそれを「大楽」(の完成・未完成。究竟)と表現しているのです。「悟りを得たのち、障礙をもたらす魔を征服」という場合の「魔」(māra)とは、大乗仏教者として利他行を行う上での障礙(さまたげ)となる自意識をいうのです。そして「悟りを得たのち」の「悟り」は「菩提心(大菩提)」(= 大欲)をいうのです。
五 有情を救済する
真言密教の基本的な経典の一つに『大日経』があります。その『大日経』の第一章にあたる「住心品」に、仏の智慧とはいかなるものでしょうか、という秘密主・金剛手の問いに対して、次のような世尊毘盧遮那仏(大日如来)の答えが用意されています。それは
「(仏の智慧というものは)悟りを性とする心(菩提心)が基本にあり、仏の大悲がもととなり、衆生救済のための方便活動を最終目標とするものである。」
という有名な三句です。悟りに基づいた衆生救済の活動が、最終目標にあるのです。
『理趣経』の第十七段は、大欲をもつ真言者の五段階の説示にひきつづいて、さらに衆生救済の活動を称讃する五つの偈頌(韻文)が説かれています。真言宗ではこれを「百字の偈」と呼びならわしています。
このあと、百字の偈の説明につづき、総括の記述となります。(未完)