理趣経 第三段 受持読誦の功徳(得益)
金剛手 若有聞此理趣 受持讀誦 設害三界一切有情 不堕悪趣 為調伏故 疾證無上正等菩提
金剛手よ、若し[人、]この理趣を聞いて、受持し、讀誦すること有らば、設(たと)い、三界の一切の有情を害すとも、悪趣に堕せず。調伏[する]を爲(も)っての故に、疾(と)く無上正等菩提を証すべし。
[T] 11 yaḥ kaścid vajrapāṇe imaṃ prajñāpāramitānayaṃ śroṣyati dhārayiṣyati vācayiṣyati bhāvayiṣyati tasya (m.3rd. G.)traidhātuka-upapannān api sarva-sattvān prapātayato (pra√pat . tib. bsad kyang)na-apāyagamanaṃ bhaviṣyati vinaya-vaśam upādāya(tib. ‘dul ba’i dbang gi phyir)/ kṣipraṃ ca-anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisambhotsyata (Fut.[Ā] 3rd.sg.)iti //
金剛手よ、誰かある者が、この般若波羅蜜多の理趣を聴聞し、受持し、読誦し、修習する者は、三界に生じたるすべての有情を殺害するとしても(あるいは、殺害するにもかかわらず)、調伏せんとしてであるから、(決して)悪趣に赴くことはない。そして(その人は)速やかに、この上なき正しい完全な悟りをさとるであろう、と。
梵文では、「為調伏故」は「不堕悪趣」の理由句として読んでいます。その場合は、不空訳は「悪趣に堕せず。調伏[する]を爲(も)っての故に。(その人は)疾(と)く無上正等菩提を証すべし」と訓読されます。予想するに、不空三蔵は「為調伏故」を前後双方に掛けて読むことで、多様な読みができるよう配慮されているのではないでしょうか。漢文では「疾證無上正等菩提」の主語を「一切有情」とすることを不可能ではないのかしら、と愚考するのです。
『理趣経』を受持し、読誦する人は、(たとえ)三界の衆生を殺害しても、地獄に堕せずして、悟りをえる、という経典読誦の功徳に関する記述は衝撃的である、と松長先生『講讃』は率直に述べられています。この問題についてさまざまな解釈が行われますが、条件付きの殺害肯定論、比喩的表現として理解するのではなく、わたしたちは『理趣釈』のいうように、「如来の密意」であるとする立場をとっています。いずれにしても、注意深く扱わねばなりません。
『理趣釈』「[設]害三界一切有情とは、一切有情は貪・瞋・癡を因と爲すに由て(=貪・瞋・癡の三毒が原因となって)、三界の中に流転することを受く。もし理趣(五種無戯論智の般若理種)とに相応すれば、すなわち三界輪廻の因を滅するなり。是の故に、三界の一切の有情を害すとも悪趣に堕せず。貪等の三毒を調伏するを爲(も)っての故に(也)。速かに無上菩提を証することを得。是の故に、如来は密意もて是の如く説を作したまう。」
密意:如来の密意(abhiprāya, saṃdhāya)を受けとめるときは、勝義諦では「降伏・五種無戯論性の瑜伽三摩地と相応すること」、世俗諦では「三毒を断ず」と解することが要求されます。それは霊城先生『講録』にも、明らかに指摘されている通りです。なお、如来蔵も如来の密意説といいます。それは了義・未了義とも関連します。
為調伏故:インドの学僧・アーダンダガルバは、次のように説明しています。「調伏せんとしてであるから(vinaya-vaśam upādāya)、と説かれている。これをもって有情たちを教導することから、調伏(vinaya)であり、意向・意志(bsam pa. *āśaya)が浄らかにして、悲しみを本質とする者が、有情たちを悪趣等の苦より済度するために、作意する宝珠、その威力(vaśam)を動力因(nus pa rgyu)となさんがためであって」(‘dul ba’i dbang gi phyir zhes bya ba gsungs te / ‘dis sems can rnams ‘dul bar ‘gyur bas na ‘dul ba ste / gang gi bsam pa rnam par dag cing snying rje’i rang bzhin du gyur pa des ni sems can rnam ngan ‘grub la sogs pa’i sdug bsngal las bsgral bar bya ba’i phyir byed pa’i sems kyi rin po che gang yin pa de’i dbang zhes bya ba nus pa rgyur gyur par bya ba’i phyir …. )髙橋先生<第一部> p.334.
少しずつ読み進めていますことお許しください。
如来の密意は、学生時代、先生の指導のもと、扱ったテーマのひとつでありましたこと、懐かしく思いだします。密意趣のある教説は必ずしも未
了義なのではない、いいかえれば、真実にかなう教説でもありうると、いまは考えています。
(追記)気になる漢字 瞋 嗔