とぶとりの成瀬のブログ

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岩手県に行って支援交流活動という名のよくわからない活動をしてきた。
ボランティアというのは曖昧でその言葉を受け取る人によってかなり意味が異なるものであるし偏見も生まれる。
元々は困っている誰かのために無償で何かをする人や活動を指すただの事実だったのではないかな。
困っている人に対して何かしてあげたいというのはある程度文化的に育った人には当然芽生える感情だしそれを実際に行動にできる人というのはある程度以上に文化的な社会にとっては立派な人である。
しかしその名誉がボランティアに加わるともはや無償の活動ではなくなるのではないかという議論がなされボランティアというもの自体の意味が変わってくる。
そのような名誉を求めるようなことは卑しいそんな奴偽善者だという人がいることも事実であるし実際に名誉を求めてボランティアをする人もいるだろう。
しかし全く自分に何の見返りもないことを人はできるのだろうか。
見返りが全くないということは瓦礫の山を片づけたり難民に食料を分け与えるという行為をその辺の石を蹴飛ばす行為と同じだと捉えるようなものであるが、そんなことは不可能だと私は思う。
誰かのためを思ってやっている時点でその人は困っている人のために何かするのは良い事だと思っているし、やってもらった側は感謝したり喜んだりすることを前提としているのではなかろうか。
そんなことは当然なのだがそれを良しと思わない人もいるわけであって、やりたくてやってることなんだから見返りを求めるなという。
たしかにやりたいからやってることという基準で計るのは正しいと思う。
ボランティアで人を助けようが家で一日中寝てようが大学で勉強しようが全部やりたいからやっているという同列で見たい。
それを世間は何をするのが良いことだとか悪いことだとか優秀だとかくだらないとかって順位をつけているから面倒なことになるんだ。
特に日本はそうなのかもしれない順位をつけて評価せずにはいられないしそれを皆で共有して組織を保つことをとても大事にする。
それがなければどんなに楽なことか。
ボランティアで感謝されている人を見てあいつはボランティアで満足を得ているのかなって思うだけならどんなに楽か。
色々な感情が入り込まなければどんなに楽か。
ボランティアという言葉には色々な意味が付随しているから私の参加した活動も支援交流活動と銘打っているのだろうが、ボランティアは無償で活動していて偉いという社会的認知を変えることでしか今のボランティアのイメージは変えられないと思う。
誰かのために何かしてるんだから見返りがあって当然だというスタンスが当たり前の環境になってくれればいいのに。
その見返りは名誉とか感謝とか笑顔とか何でもいいのだがとにかくボランティアなんだから何も求めずに奉仕しろと言うのは無理な話だと私は思う。
その日は夜に帰ってきて自分への褒美として私の溺愛する西弘前商店街に店を構えるラーメンくま吉にいった。
そこではいつものトントロガーリックというニンニクたっぷりでギトギトで巨大な岩のようだが超やわらかい肉が三つ鎮座する若い男性ならだれしもが喜ぶであろうラーメンを食した。
そのラーメンを食べるだけで荒みきった心も体も満たされ三日は頑張れる。
そして家に帰りもう一つの褒美としてロールケーキを食べていると以前のバイト先から突如呼び出されたのでヘルプに行った。
仕事が終わると店長が飲んで行けというので店長と飲むことになったが私は眠いため一刻も早く帰りたかった前日は一睡もしなかったため睡魔が私を襲うのだトントろガーリックを食べようが睡魔には勝てない。
それでも店長はもっと飲むだろもっと飲めよというように酒を飲ませたがる。
なぜ相手の反応や表情を見て行動を変えられないのかと疑問に思う酒に酔えば絶対に気持ちいいと思っているのだろうか相手の気持ちを考えることができないのだろうか。
今日寝てないので眠いから帰りたいと言ってもそんなのは大丈夫だまだ飲めと言うがどういうつもりなのだろうかなぜ他人を自分の基準で計ってしまうのだろうか相手のプライバシーだとか気持ちだとかその人にしかわからない事にずかずかと干渉できる人の気持ちがわからない。
見方を変えれば好意の表れかもしれないが求められていない好意は単なる押しつけではなかろうか。
ボランティアにも言えることで押し付けになるようなことは絶対したくない。
相手は気をつかって感謝してくれることもあるだろうがそんなのは意味がないそんなものは迷惑なマスターベーションでしかない。
なのでそのあたりは反面教師にしなければならないと思った。