暗幕で窓からの光を遮断して臨時の「映画館」が設営されるのですが、本格的な映画館と同じような暗闇の実現は不可能で、あちらこちから光の筋が射し込みます。その光の筋をよく見ると細かい塵が舞っているのが見えました。
典型的な入れ替え制。初回でなく2回目の上映の場合など、大勢の子どもたちがワイワイ騒ぎながら入れ替わった後ですから、埃が舞うのは必然。このとき誰もが光の筋を横切るときに息を止めていることに気が付きました。私も同じように息を止めて通り過ぎました。
しかし、光の筋が射し込んでいるところだけでなく、見えていない暗闇にも埃が舞っているはずだから、そこでだけ息を止めても無駄なことだと気付きました。見えないものの存在を具体的に意識した瞬間でした。それまでは何も考えず感じなかったのに・・・。軽いショックを受けたことを鮮明に覚えています。
今でも地下街の雑踏を歩くときなど思わず息を止めてしまいます。見えないだけで夥しい塵や埃が舞っているのは確実です。でも息を止め続けるのは不可能ですから、すぐに諦めざるを得ないのですが(笑)
作り立てが売りのベーカリーショップのパンなど、包装されずに剥き出しで店頭に並んでいる商品には、おそらくたっぷりと塵のパウダーが降りかかっていることでしょう。スーパーやデパ地下でも揚げたてのコロッケやフライドチキンなどがラッピングされずに並べられています。野菜や果物だったら水洗いすればいいのでしょうが、パンやコロッケはそうはいきません。大勢の人が行き来する場所に無防備に並んでいるパンやコロッケなどの食品類等々を目にすると、私は購買意欲が萎えてしまいます。
人通りの絶えない地下街のパン屋の店先で起きた突然の停電の事態。慌てず騒がず「お客さま大丈夫ですよ」威厳を保ちつつ備え付けの懐中電灯で商品を照らしたパン屋のご主人でしたが、懐中電灯と商品との間に伸びる光の帯の中で舞い踊る塵や埃の乱舞を客に見せる結果となって、威厳も余裕も何処かへ飛んでいってしいましたとさ、という笑い話のような事態も起きるかもしれません(笑)
見えないことでの安心は見えることで一気に不安へと転換してしまいます。
今問題になっている PM 2・5 と呼ばれる中国からの大気汚染物質も、目には見えない微小な粒子。黄砂や花粉より小さくインフルエンザウィルスよりは大きいサイズということですから、普通のマスクでは遮断効果は期待できないと専門家は言います。
目に見えない物質によって視界が遮られて景色が霞んでしまうのですから、日本でも相当大量に浮遊しているのでしょう。人体に有害な微粒子が体の奥深く侵入することを想像すると怖いです。不安です。
(環境省大気汚染物質広域監視システム『そらまめ君』のホームページをご紹介します。 ⇒ http://soramame.taiki.go.jp/ アクセスが集中していて繋がりにくいですが、一度ご覧になってみてください。)
大阪市立桜宮高校で起きた、体罰と呼ばれる教育現場での暴力が原因と考えられる高校生の自殺事件は、日本柔道界はじめ様々なスポーツ界の構造的問題として波及し拡がりつつあります。
これまで見えなかった問題がスポットライトを浴びたために見えたとも言えますが、臨時映画館としての体育館の塵のように、光が当たらないと見えないのをいいことにして、都合の悪いことは見なかったことにしてきたということではないでしょうか?
私たちは、見えないことで安心もし、放射能やウィルスなど見えないことで不安を覚えます。見えないことで安心しているけれども、見えたら恐ろしいことが他にもいっぱいあることでしょう。見えないのを幸いに、暗黙の了解で存在しないことにしてきたことも多いのではないでしょうか?
「見えないこと」と「見ないこと」とは似て非なるもの。目の前にあるものも目を瞑れば見えなくなりますが、存在が消えるわけではないのは当然のこと。
「見なければならないもの」まで「見えなくする」ことで、一時的には不安や問題が解消できたように思うのは大間違い。ただ逃げているだけです。
見えないものや見えないことも意識して生きていくことは、しんどいことだと思いますが、逃げていては何も解決しません。
見えないことで安心するのか、それとも見えないことで不安を抱くのか?
見えざるものに如何に向き合うべきか、今、私たちに問われているのかもしれませんね。
