こんにちはurahaです。
だいぶ暖かくなりましたね。
だいぶ腰痛も楽になってきました。
「**君がすれ違いざまに
「「きも」」って言った。」
中学1年生の6月で五月雨登校になった娘に
行きたくない理由を
妻が尋ねたら返ってきた返事ががこれでした。
早速、担任の先生に相談して
手を打ってもらいました。
(さあこれでもう行けるだろう。)
そう思いましたが娘は学校に行きません。
「どうして行かないの?」
また妻が尋ねました。
「授業に出れてないのにテストを受けなきゃならないから。」
早速担任の先生に相談したところ
特例としてテストは受けなくても良いことになりました。
(さあこれでもう行くだろう。)
そう思いましたが娘は行きません。
・・・
その後も娘に訊いた数々の行かれない原因を
私たち夫婦がせっせと動いて一つづつ取り除いて行きましたが
娘は行きません。
あの手この手で何とか行かせても
直ぐに元通り。
というか悪化している。
そんなことを繰り返すうちにもう3年生です。
そんな中私たち夫婦は毎日の様にガスト会議を開き
ちょい盛りポテト一つで何時間も
お互いの意見を話し合っていました。
当初それは責任のなすり合いでした。
お前が原因なんじゃないか論争です。
勿論それでは問題解決にならないどころか飛び火で被害が拡大します。
それは馬鹿過ぎるとさすがにそのうち気付きました。
そもそも原因論では心の問題は解決できないそうですね。
コンピューターのプログラムでも問題の原因のバグを取り除いても
取り除いたことが新たな原因になり
何処かも分からないいくつかも分からない新たな予測不能のバグが生まれて来るそうです。
プログラムは自動車のような無機的な構造ではなく有機的だからだそうです。
人の心はプログラムよりもさらに有機的なので
まず問題の原因を突き止められないし
万が一原因を突き止めれたとして
その問題の原因を取り除いても
新たな予測不能の問題がいくつも生まれて来てしまうそうです。
確かにうちの娘もその通りでした。
次は夫婦でお互い悩みを延々と喋り合い傾聴し合うようになりました。
もちろんそれも直接問題解決にはなりません。
しかし傾聴力、承認力、質問力はそれで鍛えられたかも知れません。
私たち夫婦は悩むことを考えることだと勘違いしていましたが
そのうち悩むことは考えることとは違うということに気付きました。
悩むことは
コンピュータでいうとプログラムが無限ループに落ち込んでしまった事と言えます。
考えることは
コンピュータでいうと目的実現に向けプログラムを構築する事と言えます。
さっきの原因論の対極にあるのが目的論です。
つまり
何故?と原因を突き止めようとするのではなく
目的実現のためにはどうすれば?と考えるのですね。
とは言えアリストテレスから長々と続く原因論の呪縛は非常に強力で
ついつい原因を突き止め始めてしまうので常に注意が必要です。
また原因論には帰属エラーという問題も付きまといます。
これは原因追究において原因を人物限定で探ってしまうという
人の心の性質というか人の心のバグです。
さっきのお前が原因なんじゃないか論争ですね。
原因論=悩み
と言えるかもしれません。
考えることには
・目的(ゴール)の設定
・考える素材としてのデータ
の2つが必要です。
ゴールは”娘の登校”で決まりです。
しかし
私にとって子育てのデータは”親が私にしてくれた子育て”くらいです。
多くの人はそんなものではないでしょうか?
しかしそれでは今回不十分だったわけです。
それはそうでしょうね。
考えてみれば
多くの親は、子育ての素人です。
しかも多くの親は、世間から見たら利口なわけでもないのが現実でしょう。
しかし多くの子供は大人になったら
素人である親の子育てを唯一のマニュアルとし
子育てをします。
ただそれが繰り返されて濃くなって常識化しているだけです。
つまり子育てはただの行き当たりばったりなのです。
私の両親は愛情深い人たちでしたし感謝していますが
子育ての参考にはしない方が良いと考えました。
自分で一から目的に向け再構築した方が良いと考えたのです。
何にしろデータは多ければ多い方が良いでしょう。
そんなわけで子育てのデータ収集の為に
私は色々と心理学の本などを図書館で借りて読み漁りました。
コーチング
アファメーション
認知科学
脳機能科学
臨床心理学
エリクソ二アン催眠
アドラー心理学
嗜癖
洗脳 脱洗脳
教育学
アサーション
社会心理学
etc
そして自分なりに考えたのです。
妻はネットで不登校体験談や親業、なり心理学などを読み漁ったようです。
2人で互いに”考え”を持ち寄ってガスト会議で話し合いました。
そんなことを続けました。
私が出した結論は
娘を私達から切り離した方が良い
という事でした。
娘は、外に何か辛すぎる問題という原因があって、結果外に出れなくなったのではない。
娘は、便利で楽すぎる家の中にずっと居たいという目的を実現するために
不登校という手段を選んだのだ。
それが私達夫婦の考えた結論でした。
娘は親に対する依存症
つまり薬物依存症が薬物無しでは生きられないように
娘は親無しでは生きられない状態です。
私達夫婦は娘に対する共依存症
つまり
依存症の娘無しでは生きられない状態です。
依存や共依存は厄介なことに愛にそっくりです。
というか私はてっきり愛だと勘違いしていたのです。
多分日本人の99%は勘違いさせられているんじゃないかなと思います。
TVドラマから人生を学んでしまった世代は共依存こそが親の理想像でしょう。
私の心から尊敬する先生も、親としては重症の共依存症でした。
しかも現代人特に日本人は、多数決で正しさを測る悪しき教育が染みついています。
従って
(!依存や共依存は愛ではなかったんだ!)
(!心の病だったんだ!!)
(マズイ状態だったんだ!!)
と気付くのは極めて困難でしょう。
娘は依存症
私達夫婦は共依存症
言い換えると
娘も私達夫婦も自立できていないという事ですね。
自立と自活は異なります。
社会人になって自分で稼いだ金で生活出来ていれば
すなわち自立出来ているというわけでは無いのです。
アドラー心理学では
”愛とは技術である”
と言います。
”自立に向けての技術”
それが”愛”であると。
愛という技術が不足していたから自立出来ていないということになります。
私達夫婦はゴールを”家族一人ひとりの自立”に上書き更新しました。
(不登校は依存症から来る症状であり
根本療法は自立である。)
と考えたのです。
妻は家族一人一人が自立するための方法として
まず私たち夫婦が
愛という自立のための技術を学んで共依存症を克服し
子供から自立すれば良いと考えました。
私もそう思います。
しかし私は
(それだけでは間に合わない。)
と考えました。
(良い親でありたい。)
(子供に良い親だと思われたい。)
つまり
(子供から”良い親”という他者評価を貰いたい。)
という十何年積み重ねた呪縛は一朝一夕では解けないだろうと思ったのです。
私は”嫌われる勇気”を出してみて分かりましたが
愛する子供のためとはいえ”嫌われる勇気”を毎日毎日一生出し続けるのは
精神的に大変だと感じましたし
当分の間判断も多く間違えるだろうと予測しました。
従って
私達には長い長い訓練期間が必要だと思われました。
それはそれでやるしか無いとして
一方で娘の軌道修正も間に合わせたかったのです。
どうすれば?間に合うか??
それには物理的に切り離す事が良いと考えました。
うちの子を不登校にした犯人
私たち夫婦
からうちの子を隔離すれば
学校復帰を果たせ
かつ娘の自立を促せると考え
全寮制の学校
に編入させたのです。