『ブリキの太鼓』 狂気の時代の目撃者 | シネマの万華鏡

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映画記事は基本的にネタバレしていますので閲覧の際はご注意ください。

 

 

ブロ友さんの映画製作ユニットJ&H filmsの作品がNHKワールド・ジャパンで取り上げられるという話、先日お知らせしたんですが、見逃し配信で観られるようになったので再度お知らせします。

下のリンクの25分58秒あたりから作品の一部が観られますので、是非覗いてみてください。

 

 

本編の後に解説も。英語なので全部は聴き取れませんが、「アニメーションと定義することもできなくはないけれど、むしろシュルレアリスム的で実験的なモダンアート。魅力的な声優やchill waveの音楽もいい。さらに面白いのは映画や文学からのリファレンスが詰まっていること。タイトルの『LUGINSKY』から連想する通りチャールズ・ブコウスキーの小説やその他のハードボイルド小説の要素も入っているし、ヒロインの名前「ムシェット」はロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』から、そしてコラージュを使った手法はヤン・シュヴァンクマイエルの作品に通じる。とても刺激的で面白い作品だ」みたいな感じ。

ブコウスキーにブレッソンにシュヴァンクマイエル!なんて言われたら、すご~く観たくなりませんか? シュヴァンクマイエルの名前が出てきたのは正直意外でしたが、とにかく出てきた名前全部私の好きなものばかり。これも縁でしょうか。

今夜はスカパーで放送されるらしいので、契約されてる方はぜひ観てみてくださいね。

 

さて、今日の映画『ブリキの太鼓』も、私の大好きな作品です。『LUGINSKY』とは全然違う方向性の作品ですが、でもどこかでつながってるところがある?気がします。

 

あらすじ(ネタバレ)

舞台はバルトに面する港町・ダンツィヒ(現在はポーランドのグダニスク)。第一次世界大戦まではドイツ領、ただかつてはポーランドだった時代もあり、ポーランドにとっては海への出口として欲しい土地だったのでは・・・? そんな紛争の火種を抱えた土地ということもあって、終戦後、国際連盟はこの地を「自由都市」としてドイツから切り離します。つまり、ダンツィヒはドイツが敗戦の代償として失ったものの1つとなったわけです。

戦後のダンツィヒには、ドイツ人・ポーランド人・ユダヤ人など、さまざまな民族が住んでいました。

 

そのダンツィヒで、食料品店を営むドイツ人の父と少数民族のカシュバイ人の母の間に生まれたのが、本作の主人公オスカル。が、母親はポーランド郵便局(ポーランド人専用の郵便局)に勤める従兄のヤンともくされ縁が続いていて、ヤンはしょっちゅう家に来ては母親と妙な雰囲気を醸し出している。2人がテーブルの下で何をしているか、オスカルはちゃんと知っています。

そんな大人たちに嫌気がさしたオスカルは、3歳で成長することをやめ、家の中でも学校でも、お気に入りのブリキの太鼓をいつも手放さない。その太鼓で大人への怒りを打ち鳴らします。

時代は第二次世界大戦へ。ダンツィヒ奪還、その先のポーランド侵略までも目論むヒトラーは、ドイツ人が多いダンツィヒ市民の熱狂的支持を取り付け、街はナチ一色に。オスカルの父親は熱心なナチ党員へ、そして1939年9月、突然ドイツの侵略がはじまります。

家族や知り合いが次々に命を奪われる中、オスカルもナチの協力者となり・・・

 

監督はフォルカー・シュレンドルフ。

原作者ギュンター・グラスの自伝的作品。1927年生まれ、父親がドイツ人で食料品店を営み、母はカシュバイ人、驚いたことに母親の従兄がダンツィヒのポーランド郵便局に勤めていたということまで、オスカルのプロフィールはグラス自身のそれに重なります。

勿論グラスは3歳で成長をやめたりはしていないし(笑)、母親の浮気も脚色の可能性が高そうですが、むしろそういうデフォルメされた部分に、本作の核心が顔を覗かせています。

 

不穏な時代の申し子・オスカル

 

自らの意思で成長することをやめた万年3歳児・オスカル。子供の成長は親の喜び、それをやめてしまうんですから、これ以上の反抗はありません。ずっと3歳ならせめて可愛らしい盛りが続くのかというと、大人が子供に望むような愛くるしい笑顔を振りまくこともなく、終始目をギョロギョロさせ、眉間に皺を寄せて、気に入らないことがあると叫び、彼の叫びはガラスというガラスを砕きます。

言わばサイキック、ただならない怒りのエネルギーを秘めた子供ならぬ子供・・・それがオスカルなんです。

でも、第一次世界大戦後の小休止を経て第二次世界大戦に向かう不穏の時代、それもその渦中も渦中の土地・ダンツィヒなら、オスカルのような存在、まさに時代の不穏がそのまま立ち現れたかのような子供が現れてもおかしくはない気がします。

 

この作品の中で、オスカルがナチ幹部の慰安のためのサイキック・ショーに出演してガラス割りを披露する場面があるのですが、この場面で思い出すのがベルナー・ヘルツォークの『神に選ばれし無敵の男』。

やはり本作と同じく第二次世界大戦とホロコーストに向かう不穏な時代を描いた『神に選ばれし~』では、ヒトラーのお気に入りで指南役でもあった「預言者」のハヌッセンと、彼が主催するサイキック・ショーで怪力を披露していたジシェが登場します。ハヌッセンもジシェも実在の人物をモデルにしていて、ジシェはホロコーストを予言したことで知られる人物です。

 

 

ハヌッセンはともかくとして、ジシェはまさしく時代の狂気を嗅ぎ取った異能の人物。平和な時代には現れることのないこうした異能の人が現れた時代、それがドイツの1930年代だったんです。それだけ歴史上未曾有の禍々しさ・狂気が充満する時代だったんでしょう。

本作のオスカルの異能は全くのフィクションとは言え、彼がジシェ同様にナチのサイキック・ショーに出演する場面は、時代の申し子としてのオスカルの立ち位置を意識させるものがあります。

 

2つの国の狭間で(2人の男の狭間で)

オスカルが子供であり続けるという設定には、演出的な効果もあります。つまり、子供の視点から大人社会を描くことで、大人の嘘や日和見、ご都合主義、社会の理不尽がクリアに浮かび上がる効果があるということ。

オスカルの大きく見開いた眼は、大人たちの何もかも見透かしているかのよう。それはある意味神の視線にも等しい鋭さで、その眼が映し出された後に見せられる大人たちの言葉や行為は、罪と愚かさが一層際立つのです。

 

オスカルの母親と彼女の従兄のヤンの半公然の不倫関係がオスカルの不安と怒りを掻き立てているのは勿論ですが、2人の男の間で揺れる母親(さらにそれを承知で言い寄ってくるユダヤ人も)という構図は、そのまま、ドイツとポーランドの間でひきちぎられそうなダンツィヒと重なり合っているんですよね。

つまりオスカルは、ダンツィヒをめぐってドイツとポーランドが第二次世界大戦へともつれ込んでいく狂気の時代の目撃者でもあるということ。彼の不安と怒りは、時代の不穏な空気とも鋭く共鳴し合っています。

 

子供ですら罪を逃れることを許さない、ギュンター・グラスの戦争観

 

この映画には肉体的には3歳児のオスカル(演じているダーフィト・ベンネントは当時12・3歳)が16歳の少女と性的行為に及ぶ場面があって、それが国によっては児童ポルノと認定されたとか。どのあたりがそうなるのか私にはわかりませんが、そういう理由でこの映画が観られなくなった地域があるとしたら、とても残念なことじゃないでしょうか。70年代に、これほどナチズムへの時代の流れを真摯に描いた作品はなかなかないので。

 

オスカルの両親はヒトラーの信奉者で、ことに父親はナチの周辺国への侵略を強く支持しています。戦後ドイツに生き残った人々は皆、ナチズムとの関りを否定し、戦争の被害者を装おうとした。それは生き延びるためだったにしても、でも、真実は違うということをオスカルの父親の姿を通して原作者のギュンター・グラスは訴えているわけです。

ヒトラーを熱烈に迎え入れたのは一般大衆だった、と。

それから、カシュバイ人のような少数民族さえ、ユダヤ人を差別していたことも。

こうした描写を単なるシニシズムで行ったわけではないことは、グラス自身が、少年時代にナチの親衛隊に入っていたことを著書で告白していることからもわかります。反省していないからではなくその180度逆。過去の自分と真っすぐに向き合ったからこそ、罪なき戦争の被害者を装い続けることができなかったんじゃないでしょうか。

 

3歳の肉体でナチの軍服を纏い、性的興味も旺盛なオスカルの描き方には、グラスのこうした「戦争の傍観者であることを自分にも周囲にもけして許さない姿勢」が反映されています。

上に書いたようにオスカルは集団的狂気の時代の目撃者。子供なのだから純粋に時代の目撃者・犠牲者として描くこともできたと思うのですが、グラスはオスカルを傍観者の位置に隔離することを良しとしなかった。純粋に戦争の犠牲者と名乗れる人間なんて誰もいない。誰もが被害者でもあり、加害者でもあった・・・そういう著者の厳しさが、露悪に満ちた3歳児オスカルの姿に投影されている気がします。

映画版にしても、けして面白半分のポルノなんかではないことは観た人には伝わるはずです。

 

ついでに言えば、オスカルの祖父を「国外逃亡した連続放火犯」として描いたことも、オスカルをエロガキとして描いたこととつながっています。

そもそも女のスカートに潜りたがるスキモノDNAは、祖父から受け継いだもの。犯罪者である祖父の血はオスカルの原罪?であると同時に、すんなりと国家を信じない批判性もオスカルに授けた。そんなオスカルの視点で眺めるからこそ、この時代の狂気と欲望が映像に露わに引き出されるのです。

 

戦争で太る鰻

民族差別を公然と叫ぶナチの党大会、オスカルの父親もいる家の中でこそこそ睦み合う母親とヤン、投降した人々を容赦なく銃殺するドイツ軍、敗戦色が濃くなるとヒトラーの写真を破り捨てる父親・・・さまざまな狂った光景を見せられる中で、リアルに吐き気を伴う不快感マックスのシーンと言えば、オスカルが両親とヤンの4人で海岸を訪れ、網で鰻を捕る漁師に出会う場面です。

相変わらずつないだ手を離さない母親とヤン、2人の関係を知っているのに見てみぬふりの父親、いびつな家族関係は変わらないのに、表向きはやたらと明るく振る舞う母が、漁師に網に何がかかるかを尋ねます。

すると漁師が網を引き揚て見せる。そこにかかっていたのは・・・腐敗した牛の頭部とそこに絡みついた無数の鰻。

肉を食む鰻の生態を知らなかったのか、知ってはいたけれどそのグロテスクな光景と臭気が凄まじすぎたのか、母親は岩場に駆け込んでゲエゲエと嘔吐します。彼女を介抱しながら尻を撫でているヤンがいやらしい。

しかし、鰻が好物の父親は全く意に介さずで、漁師から鰻を買おうとしています。

その父に漁師はこんな話をするんです。

「大きな鰻だって?こんなもんじゃないよ。前の大戦の有名なスカゲラークの海戦の時は・・・わかるかね?海戦の後は凄い鰻がとれるんだよ」

つまり、鰻は人間の死体も喰らうということなんですね。

 

本作が描き出そうとした吐き気がするような戦争の現実、民族と民族の弱肉強食の実態を、これ以上なくビジュアルに、凄まじい臭気付きで、描き出した場面。

その臭気に母親とヤンの肉欲に引きずられるくされ縁の臭気が絡み合って、粘りつくような不快感が後を引きます。

 

滑稽でコミカルな描写ばかりが記憶に残っていたのですが、今回観直してみると、妥協を許さない批判精神が貫かれた良作でした。中欧の大戦のトラウマの深さも、改めて思い知った気がします。