母のところから帰宅して一週間。

わずか一週間ではあるが、記録に残せない量と疲れがある。

 

退院して落ち着けば、悪化した認知が少しは良くなると楽観していたけれど、日々悪化したり、少し良くなったりを繰り返し、少しずつ下降線を辿っている。

 

足が痛いから一階にある食堂に行けないと連絡して、部屋に食事を持ってきてもらったかと思えば、夜、人恋しいのか徘徊まではいかないらしいが、うろついているという。

 

食事を持ってきてもらってもほとんど食べていないらしい。

食べることが何より好きだった母が食べないのだ。

不安が募る。

私が滞在している時から食欲はなかったが、その時は退院直後ということで気にしていなかったが今も食べていないらしい。

体力が落ちることを心配で、何度も電話しては食事をするように話すが、「わかったわ」と言いながらも、電話があったことさえすぐに忘れてしまう。

 

朝7時と夜9時には必ずヘルパーさんが20分ほど様子を見に来てくれるのだが、毎回、「あら。そうなの?」と初めて聞く話となる。

 

今日は夜に食事をしたかを確認するため電話をすると足が痛いと訴えてきた。

足首が痛くてたまらないというのだ。

マッサージの人に来てもらいたいが電話番号がわからないので、私に電話しようと思っていたという。

その携帯にはマッサージの人の連絡先は10年も前からもちろん登録済みである。

 

今日は日曜で休みだから、携帯に連絡すると迷惑なのでしないでね。

月曜日はマッサージの人が来る日でしょ。夜に来るから、明日まで待って。

 

と言ったが、月曜日に来ることも認識できず、今日が何曜日かもわかっていない。

入院前もかなり怪しかったが、でも、金曜日の習い事には毎回出かけていき、通院の予約もほぼ忘れずにいられた。

 

それが、2月末の転倒して一か月入院後の今はできなくなってしまった。

 

足首が痛い痛いと訴えるので、

 

9時にヘルパーさんが来るから、来たら私に電話してね。

ヘルパーさんに痛み止めのある場所を伝えるから、それを飲めば治るよ!

 

わかったと言っていたのに、それから数分後に母から電話があり、

「足首が痛い!」

と初めて話すかのように話し始めた。

 

「だから、ヘルパーさんが来たら薬を出してもらうように言うから待って!」

 

と言うと、

 

「あら、ヘルパーさん来るの?私の知っている人?薬どこにあるの?」

 

ついつい、

「ついさっきも話したばっかりじゃない!」

と言ってしまった。

 

「飲んでもすぐには効かないから、痛い間は薬飲んだことを忘れちゃって、何度でも薬飲んじゃいそうだから、ヘルパーさんに出してもらうよ。

ヘルパーさん来たら電話してね。」

 

と言って切ったが、結局9時過ぎても電話がなかったのでこちらからかける。

 

ヘルパーさんに事情を話し、痛み止めのある場所を伝えて一錠だけ出して飲ませてもらうようにお願いした。

 

そのうち、私のこともわからなくなるのかもしれない。

 

家の目の前にある特養に電話してみたのだが、500人待ちだと聞いた。

 

夫の薦めもあって、私の家に呼ぶことも考えたが、うまくやっていけるか自信がない。

なんといっても、30年以上の間、断絶を繰り返してきた私たちなのだ。

 

私は母のことを「ママ」と呼んでいた。

「お母さん」と呼ぶことはないまま、長い断絶の時期があった。

息子が生まれた時、私は絶対にママという言葉は使わなかった。

私にとって「ママ」とは、私を苦しめる存在でしかなかったからだ。・

私は「おかあさん」でありたかったので、息子にも「おかあさん」と呼ばせた。

 

今は母のことを「あなた」と呼ぶことが多い。

でも、私を娘だと認識できないのではと疑う会話の中では、「ママ」と呼ぶことはある。

 

そんな最悪な母ではあるが、父が死に、弟が死に、認知症になった母と私と二人だけになってしまった今、愛おしい気持ちが生まれた。

最後の家族を大事にしたい想いがあるからだろう。

それだけではなく、認知症になった母は我が弱くなった。

弟が亡くなり、私しか頼ることができない思いがあるのだろうが、気づかいを持って接してくれるようになった。

その気遣いは、認知が酷くなった今も続いている。