江戸時代の浅草寺領について その4 | まっちー(machida-ito)のブログ

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江戸時代からの浅草寺領と諏訪神社の歴史について その4

 

それでは、この当時の浅草寺領がどのような様子であったのかを?をまずみていくと、慶安二年及び三年(1649~1650年)当時の村高や支配状況をまとめた文献であります「武蔵田園簿」に浅草寺領に関する記載があり、そこにはまず寺領五百石の観音領浅草門前町の内訳は田方が四百六十七石六升三合、畑方が三十二石九斗三升七合とあって、田方が九十三%を占め、どこからどこまでが実際の田であったのかは不明でありますが、浅草寺領内の門前町の地域が田勝ちの地であったことがわかります。

 

では、浅草寺門前町屋は何時ごろから置かれ、整備されてきたのか?現雷門前の浅草寺領並木町あたりでさえ今の並木町というのは慶長の末までは松の並木にてその間に草屋あり。窓より草履・草鞋など出して営み居ける「落穂集」とあれば、「慶安より後の起立なり」とあって三代将軍家光の時代の末頃までは並木の間に赤土の家あり。その窓からぞうりわらじを出して売るような状態であったと伝えられています。

 

更に花川戸町と山之宿町については「御府内備考」に次のように記されています。

 

「往古は御料所に有之候處承応年中(1652~1655年)浅草寺領に相成候由申伝御座得共古書物等無御座相知不申候」とあります。

すなわち「昔は御料所(御料=食物の敬称・領地の敬称・領主のいるところ)でありましたが、承応年間(1652~1655年)浅草領になりましたが、古文書などが残されていないので相知れず申し候」というものであります。このことから花川戸町と山之宿町が幕領(幕府の土地)から浅草寺領になったのはこのころであったことがわかります。

 

代表 まっちー音譜

 

株式会社 町田絲店 代表取締役

 

 

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