江戸と江戸城(江戸城と江戸城下町の構築)その10 | まっちー(machida-ito)のブログ

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以上が徳川家康が天正十八年(1590年)八月一日に江戸に入ってからおよそ四十二年にわたって築き上げた江戸城と初期の江戸内の姿であります。

 

そして最も関心のある点は第三次穿設において行われた工事の内容であります。

 

それはまず平川の流路を変える工事で前記したように神田山を開削して平川(江戸川)を浅草川に繋ぎ、更に隅田川に通じさせてこれを新たに神田川にすべく計画したもので、元和二年(1616年)十月に一応完成しました。

 

こうして新しくできた神田川より南の台地には家康の死後駿府にあった家臣団が移住し、以後駿河台の地名となります。

 

そして平川に沿った飯田橋口・神田橋・常盤橋・一石橋・日本橋に至る旧来の江戸城外郭は内郭濠となり代わって一回り大きく神田川が江戸城の外堀となったのであります。

 

同時に本庁一帯の町人地は平川の洪水に苦しむことがなくなったばかりかその南岸に徳右衛門町・柳原町北側に浅草平右衛門町・瓦町・神田右衛門町をおこしました。

 

それは堀替の土砂を整地にあてたからだと言われ、その結果浅草門前町は江戸町人地と直結することとなったのであります。

 

神田川 神田川の名は古く、天分十九年(1550年)三月十九日北条氏康が用土新左衛門に与えた文書の中に神田川と記されています。

 

 

これが初見のようでありますが、どのあたりを指しているかはわかりませんが、下流がお玉が池の辺りを経て浅草川に合流しているように思われています。

 

今の神田川は「船河原橋からお茶の水そして柳原堤外を経て浅草川に落ち合うまで」の呼び名であるといわれています。

 

平右衛門町 三枝平右衛門は遠州浜松の人で天正十八年(1590年)家康の入国の時に御供をしてきて元和二年(1616年)にこの地を町屋にするよう上意があったといわれています。

 

町名はその名をとっています。

 

そしてその時から名主をつとめています。古くは豊嶋郡峡田領鳥越村の内でありました。寛文図(1671年)に平右衛門丁とあります。

 

瓦町 昔から瓦を焼く職人がいたのでその名が付けられたと言います。

 

元和二年(1616年)に町屋となりました。寛文図(1671年)にかわら丁としてあります。このようにみてくると、台東区ではいち早く平右衛門丁と瓦丁が町屋になっていたことがわかります。

 

下の絵図は「新板江戸大絵図」並びに「新板江戸外絵図」を参考にした絵図で寛文十年(1670年)であります。そしてここには諏訪明神が記載されています。

 

 

代表 まっちー音譜

 

株式会社 町田絲店 代表取締役

 

 

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