江戸と江戸城(江戸城と江戸城下町の構築)その5 | まっちー(machida-ito)のブログ

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慶長三年(1598年)豊臣秀吉が没し、徳川家康の時代が到来します。天下は慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いの勝利で家康の手中に入りました。

 

 

そして慶長八年(1603年)江戸に幕府が開かれました。この時江戸と江戸城は一大名の領地の城下町ではなく天下人の都市と城郭になったわけでそれにふさわしいものになる必要が生まれたのであります。

 

文禄三年(1594年〉以来中断されていた江戸城の工事が再開されました。

 

天下人となった家康が諸大名に命じて行わせた江戸城の大建設工事が天下普請であります。

 

慶長八年(1603年)三月三日から工事は始まるのであります。現在の駿河台辺りに相当する位置にありました神田山を崩してその土を江戸前島に持ち込んで日比谷入江を埋め立てながら付近を整備したのであります。

 

その結果道三堀が東側に延長されたかタッチの日本橋川ができました。

 

 

整備された前島は日本橋浜町から進橋付近にかけての市街地になりました。

 

ここに南北に東海道が通され日本橋川を渡る位置に日本橋がかけられることになりました。

 

ここまでの大きな目的の一つは今後の本格的な工事に備え大量の資材を海から搬入するための船着場をを作ることでありました。

 

この工事には大名七十家が命じられ、各大名は「千石夫」として知行千石に対し一人という人夫を出さなければならなかったと言われています。

 

そして廣長九年(1604年)六月一日江戸城の本格的な普請計画が発表され八月には諸大名に工事のための石船の調達が求められました。

 

巨石を伊豆から運ぶためで陸路よりも海路をとるほうが効率が良かったからであります。

 

大名には合わせて1万百九十二両の補助金が与えられました。

 

 

命じられたのは池田輝政・加藤清正・福島正則・黒田長政たちの西国筋の外様大名を主とする二十八家及び堺商人尾崎又次郎で普請奉行は内藤忠靖・貴志正久・神田正俊・都築政・石川重次が務めました。

 

そして慶長十年(1605年)になって家康は将軍職を秀忠に譲り、大御

所となりますが、石船の準備は継続して進められ、建造された船は次々と江戸へ回送されました。

 

翌十一年(1606年)になると、諸大名自身が江戸へのぼり、指揮を執るとともに、奉行・人夫を採石場へ派遣させ進められました。

 

江戸城の工事はその年の三月一日から本丸部分が築き直され始めました。

 

拡張をしたのは築城の名手といわれました藤堂高虎で本丸御殿は九月二十三日に将軍秀忠が五店に移っているところからこのころには完成していたとみられています。

 

慶長十二年(1607年)には天守台などの工事が行われました。

 

これには関東・奥羽・信越方面の大名が関わりました。

 

伊達政宗・蒲生秀行・上杉景勝・最上義明・佐竹義光・佐竹義宣・村上義明・堀久太郎・溝口秀勝らも工事に加わったといわれています。

 

代表 まっちー音譜

 

株式会社 町田絲店 代表取締役

 

 

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