浅草の歴史(石浜地域の寺院縁起並びに石浜神社・石浜城について) | まっちー(machida-ito)のブログ

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石浜地区の歴史について見ていきたいと思います。そこでまず参考とするのが「浅草名跡記」という文献で、文政八年(1825年)に幕臣であります石川正積が郷土誌として挿絵と共に記したものであります。そこで初めに石浜城についてその記述から見ていくことにします。

石山城跡については次のように記されています。

「此の城誰人の築きしにや詳ならず『廃城考』というものに『石浜の城主千葉次郎天正二年五月十一日討ち死にす』と載せたり、是はいかなる拠にやされば天正の頃造も此の城存在しこと知るべし、また『或書』に云う。この総泉寺のところとも、また寺の後ろともあるいは神明宮の北の方とも云えり。一説に今戸村後ろとも云えどどれが正しきや詳ならず。『天正本太平記』の武蔵野合戦の条に「石浜入道といえる人此のところに在りし」よしとす。今按ずるに当城は千葉家の居城なることは「梅花無尽蔵」などの諸記に乗るところなり。此の石浜入道といえるのは則千葉家の一族にて世々此のところに居りしならん」『関東古戦録』に云う。「千葉次郎タネムネと申すは武蔵国豊島郡石浜の城主ジロウタネトシが子なり、千葉介ツネタネ十四世五郎ノリタネ享徳四年八月十二日、十二歳にて早世し、家中の面々に拠を失う所に此のついえに集まりて五代以前の千葉大助ミツタネが庶子の陸奥守ヤスタネ総州馬加城にありしか。異母兄弟コレタネと家督を争い、当家譜代の所領二方に分かれて一戦に及び、イエタネに打ち勝って総領を保て利。是にて宿老円城寺左馬助を伴い本国を離散して武州江戸城に赴き太田道灌にしかじかのことを告げて疵陰を頼みければ道灌後か高家にして微力せるをあわみれば石浜の砦を投てこれを守らしめ連連総州の地を略して本居せしむべき造恵なり。共の後年を経て道灌卒して男源六郎資康上州へ奔り山内上杉顕定に属しける故コレタネ総州還住の宿意もどけがたく身退りければ、遺骸を石浜禅林寺に葬る。今以て古塚を千葉塚と写すといえり。その子次郎コレトシしばらく上杉朝興に仕えけるが、是も南方の為に追われて江戸の城を退去在りしほどにコレトシ氏康の団下に従ひ石浜近辺の所領を安堵し今のコレムネに譲れり此度コレムネイニ討ち死にし令嗣なかりしまま氏政哀惜甚だしく北条常陸介氏繁の三男を彼か幼少の女子二人有しにあわせ、千葉次郎タネムラと名乗らせ遺領相続なさしめられし行くほどもなく夫婦ともに失亡して終に断絶したりけると云々」

次いで石浜神明宮については

 

 

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