江戸と浅草の歴史(町名由来と古地図を通して(その8) | まっちー(machida-ito)のブログ

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江戸と浅草の歴史(町名由来と古地図を通して(その8)

 

ありがとうございますニヤリ

 

北条氏と江戸・浅草

 

それでは江戸方角安見図鑑(延宝図)を見ていきます。

 

隅田川下流(西)から見ていくとまず目に留まるのが、天王丁とトリコエハシとが記され、川岸には御米蔵があります。

 

次いで道なりに東に行くとモリタ丁と西フクジがあり、更にスワ丁までの間に大師堂・文珠院・セウガクジホッタツシマと記され、くろ舟丁が見え、稲荷があり、御馬やが見え左近・石井孫左という人の名が記されているだけであります。

 

更にスワ丁を東に向かうとこまがた丁があり、ハナカワ戸丁となります。

 

一方現在と同じように駒形堂から並木丁を経ると雷門で現在の仲見世はミナミ谷と記されかつての浅草寺の支院(十二衆徒)が記されています。

 

この様子が延宝八年(1680年)当時の街の姿でありました。

 

天王丁は享保三年(1778年)鍛冶の類焼より、十二間通りが御用地となり、召し上げられて茅町の表通り松平市正の上屋敷の内に代地を賜りました。

 

天王は後の須賀神社のことであります。

 

森田丁は元和六年(1620年)浅草の御蔵の新規普請で境内の高い土を蔵地の御用に使用しその後町屋となりました。

 

森と田をとって町名としたといいます。

 

西フクジは正覚寺で後の榧寺であります。

 

寺の縁起によればこの庵は慶長四年(1599年)にこの地を訪れた増上寺の僧、観智によって創建されたといいます。

 

文珠院は八幡宮の別当であったといわれていますが、不明。

 

おうまやの渡しの別称として古くは文珠院渡しともいわれていました。

 

なお八幡社は元禄六年(1693年)に鎮座したものであります。

 

黒船丁は、古くは豊島郡峡田領石浜庄新町村と言います。イナリとあるのが黒船稲荷社のあった処であります。

 

スワ丁は諏訪大明神があったので町名となりました。

 

コマガタ丁は駒形堂があったので町名になりました。

 

イナリは清水稲荷社のことであります。

 

なお、駒形堂の処と吾妻橋の手前のところに舟ありとか記されていますが、厩の渡しの処は何も記載されていません。

 

御厩河岸の渡しは延享四年(1747年)卯六月からはじめられました。

 

また、この延宝図見ても知られるように町割りと町名ははよくわかりますが、未だ町ができていないことがわかります。

 

 

代表 まっちー音譜

 

株式会社 町田絲店 代表取締役

 

 

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