MACF礼拝説教要旨2024年9月22日 | パスタ〜Kazの「いてくれてありがとう」ノート

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関根一夫の感じていること、気になっていること、そして説教ノート、写真などあれこれ掲載予定です。

MACF礼拝説教要旨

2024年9月22日

 

「信仰者の苦難」

 

ヘブライ人への手紙11章

32これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、

また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。                   

33信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、

34燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに

強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。

35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、

更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。

36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。

37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、

暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、

38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。

39ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に

入れませんでした。

40神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、

わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

 ****

信仰者列伝の記事も終わりにきました。

ここに出てくる名前はみな旧約聖書に出てくる人たちですので、ぜひ、名前を見つけて旧約聖書で

発見してほしいと思います。

大変興味深いのはこの中に、いわゆる勝利を味わって人生を過ごした人と、神の名の下に迫害を受け

苦しみ抜いて死んで行った人たちのことが同じ土俵上で語られていることです。

信仰によって勝利し、奇跡を経験した人たちは、なんとなく賞賛されますし、その線にそって

私たちも生きたいものだと思います。

でも、後半の苦難の中に死んでいった人たちのことを考えると気持ちが重くなります。

 

35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、

更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。

36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。

37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、

暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、

38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。

 

この範疇に生きることは辛く、厳しく、どうしてこんなことが起こるのだろうと悩みつつ

生きたに違いないと思います。

そこで今日は、私たちにとって苦難とはどういう意味があるのかを考えてみたいと思います。

 

1)すべてを理屈で結論を導こうとすることの危険性

 

私たちの中には、苦難を通過した人に対して、「ま、こういう辛いことを通して神様は

何かを教えようとしておられるのでしょう」とか「こういう悪は、きっと神様の計画の中に

あるのでしょう」とか言いたくなることはありませんか。

でも、それはよくよく考えれば矛盾したことを言っていることになります。

神様は悪を喜びません。悪の存在を是認したり、悪を用いて私たちを訓練しようとはしておられないと

思います。神は愛であり、聖であり、義なる存在ですから、悪を是認することはできないのです。

悪は裁かれます。神様は悪を決して見過ごす方ではありません。

ですから、神様が悪を用いて私たちを訓練することはなさらないのです。

悪は辛さをもたらし、迫害は神様への反抗心の表明でもあります。

それらを神様は決して喜ぶことはありません。

むしろ、それらについて、なんらかの形での裁きをもたらします。

しかし、それらの苦しみをもたらした人たちが地獄に落ちるというようなことではなく

神の愛、神の憐れみ、神の善意から遮断されるという結末を迎えるということに通じている

と思います。

そしてそれらの苦しみを通過している人たちを神様は決して忘れることはないのです。

神様の思いは、それらの方々に向けられています。

 

2)我慢して通過すれば死んでから天国に行けるという発想

 

また、私たちはこの地上での辛い日常を通過してこそ、間違いなく報いとして天国に行けるのだと

考える癖もあるかもしれません。

実は「天国」と「地獄」という発想は旧約聖書にはほとんどありません。新約聖書にもそれほど明確に

書かれているわけではありません。「新しい天と新しい地」という表現がありますね。

苦しみに出会い、死を迎える時、その人は神のいのちの中に呑み込まれるように「永遠の御手に

しっかり握られて神様との深い交わりの中に生かされるのです。

天国という場所というより、「神様とのいのちの交わり」の中に永遠的に置かれるのです。

つまり、死んだら天国という発想の中にある、非連続性は聖書の教えとは少し異なっていると思うのです。「死」とは「断絶、遮断、肉体の終わり」ですがイエス様が死から復活したことにより

「肉体の終わり、絶望だった死」はそのまま「神のくださる新しいいのち」に呑み込まれて、

私たちの存在そのものが愛にあふれる神様のいのちの中に置かれるのです。

そこに、大きな安心があります。

「天の住まい」という呼び方で天国を表明することがあります。私もそういう歌詞を書いてきました。

しかし天の住まいとは大空の向こうではなく、「神様が働いておられる場所」つまり、私たちと

壁ひとつで繋がっているところであり、神様の臨在を味わえるところです。

私たちのこの地上でのいのちが終わった時「神の命、復活のいのち」が私たちを覆ってくださるのです。

 

3)では、私たちはどう考えれば良いのか

 

私たちは、理不尽な苦しみの中で死んで行った人たちの苦労や悲しみをどのように理解すればよいのでしょう?

また自分が困難な状況の中に置かれているとしたら、どう対応すればよいのでしょう。

 

私たちは苦しみは苦しみとして受け取る必要があると思います。

泣いて良いし、嘆いて良いのです。しかし、その中で詩編を思い出し、神の言葉を思い出し、

イエス様の愛を思い出す必要があります。

それらを心に覚える時間が必要です。

落ち着いて主なる神と向き合う時間が必要なのです。

苦しみは苦しみとして、受け止め、理不尽は理不尽として神様に訴えて良いのです。

ただし、同時に神様のみ言葉と愛とにしっかり心を向け、それによって

心を取り扱ってもらう必要があるのです。自らの本当の居場所はこの地上ではなく

神のもとにあることを思い出す必要があります。そして、この地上での生活は

神様からの委託を受けて、一時的に生活しているのだと考えることが必要かもしれません。

地上では苦しみがあるのですが、イエス様はすでにその苦しみに打ち勝ってくださいました。

イエス様は私たちの苦難や涙を知っていてくださいます。経験済みだと言ってくださいます。

だからこそ、悲しみの中で神様からの慰めを経験することができるのです。

わかってくださる方がおられるからです。

それゆえ、苦難の中で「イエス様、私の苦難をあなたがすでに通過してくださったことを感謝します」と

祈ることができるのです。そしてこの祈りは必須です。

それによって絶望状態の中で「神様への感謝を伝える」ことができる奇跡がもたらされるのです。

 

もし、私たちは素直にイエス様の前に出て、心の痛みを訴えると同時に

イエス様がすでに人としての全ての苦難を通過し、死んで復活してくださったことを

信じて、そのお方のいのちの中に私の居場所があります。と告白し、

愛なる神の憐れみを求めることさえできたら、慰めや励ましがもたらされるでしょう。

問題の解決ではなく、解決方法でもなく、なぜ、この苦しみが私にもたらされたのか

を問うのでもなく「神様、あなたこそ、私の居場所のみなもとです。

愛なる神様の支配と救いが、自分の心にもたらされますように」と

祈ってください。

 

あまり簡単に「あれは、私には必要だったのだ」と納得しなくて良いのです。

それはずいぶん後からわかることかもしれません。

「私の居場所はあなたのところです。神様、私を憐れんでください。あなたの愛で私を包んでください」と祈ることができたら、苦難の中でさえ、心穏やかに、落ち着いて前を向くことができるような、そして

感謝の心さえもたらされるのです。

自分という存在はイエス様に愛され、赦され、神様の前にのみ本当の居場所があるのだと

信じることが重要です。

 

Youtubeでの礼拝映像はこちらです。

https://youtu.be/_oO3HPWyTVk