(昨日の続きです)

 

6,クレタ人のパラドックス

これは「私は嘘つきだ」という表明自身にある。もしこれが真ならこの人は嘘を言っているからこの人は正直なはずであり、そして実は正直ならば原名の通りに「実は嘘つきだ」と言うことになる。

 

なおこの逆もあって、「私は正直だ」は、本人が正直であろうと嘘つきであろうと正しい表現になって、審議が付かなくなってしまいます。「自己言及」というパラドックスのジャンルの、代表的なものです。

 

これは言葉という形式近似が、必ずしも完全無欠でないために起こる現象であり、言葉を迷信する人への警告である。形の上では裏表の区別のないメビウスの帯に似ている。もう一つの教訓は事物の多面性に関連してだが、どんな人も「常に正直」とか「常に嘘つき」と言うことは、無いのだ。

 

この手の「代入のパラドックス」は、類似が結構作れる。例えば、「会議に議題がないと言うことはない。もし全員が無口なら、なぜそこまでやる気がないのかと言うことが、議題になるからだ。」

 

 

7,ゲーデルの不完全性定理

先のクレタ人のパラドックスの逆手を取ったのが、ゲーデルの不完全性定理だ。これは「任意の数体系および数値化できる体系には、その体系内で真か偽かを決定できない部分が必ずある」と言うものだ。

 

証明は閉じた命題体系を規則的に数値化して代入すると、この代入行為がクレタ人の場合の推移律になっていて、「真とすれば偽、偽とすれば真」の状態に落ちいるというわけです。ネガティブなパラドックスを、前向きの哲学的教訓に、衣替えさせています。

 

 

8,契約は契約だ

これは文法的又意味的にも矛盾はないが、何も説明していない。説明していないが寒冷や相手の態度で、その意味を掬うことはできる。「一度締結した契約だから、状況の如何を問わず遵守しなければならない」と言った意味だ。結局感得するしかない。「私は私だ」とか、結構見かける。これも自己言及のパラドックスの、最も極端な場合です。

 

中間的なものには、「張り紙禁止」と書いた張り紙が張ってある、あるいはテネシーワルツの歌詞の中に「テネシーワルツ」という語が含まれている、などです。

 

 

 

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画像は下記のサイトより、お借りしました。

張り紙禁止の張り紙 | フリー張り紙素材 はりがみや (harigamiya.jp)