家康は、冬の陣の後、離間の策を仕掛けました。
家康は、太原雪斎に軍学を学んでいました。
蜀の孔明の策を用いました。
真田幸村、信之兄弟を京都で密会させました。
今、大坂から徳川に寝返れば信濃で一万石与えると家康は信之に告げました。
それを信之は幸村様に言いました。
この幸村は、一万石の価値ですか?
兄上、拙者も安く見られましたな。
幸村様は、家康に恥をかかせる戦をしようと覚悟したと、幸昌様、あぐり様に告げています。
さらに、毛利勝永には、旧主人、山内一豊夫人に懐柔策をさせました。
どちらも失敗しても良いのです。
大坂城内に不信感を芽生えさせれば良いのです。
そして、それは成功しました。
大坂方は、夏の陣では一枚岩ではなかった。
幸村様も、自分の為に戦をしました。
大坂夏の陣、最大の激戦、道明寺の戦いは幸村様の一生の誇りです。
大坂方は、木村長門守、後藤又兵衛を喪い、崩壊の危機でした。
殿は、真田幸村、毛利勝永の両将が務めました。
毛利勝永が敗軍をまとめて城に引き上げ、幸村様は、東軍で無敗を誇る、伊達政宗の騎馬鉄砲隊を撃破しました。
伊達政宗に生涯で唯一無二の敗戦を味わいました。
しかし、娘を伊達政宗に幸村様は預け、さらに大八様も、預けました。
その娘が伊達政宗の家老、片倉重綱に嫁ぎました。
大八様が仙台真田の初代になりました。
そして、翌日、茶臼山から出陣した幸村様は家康の本陣に突撃しました。
家康は、本陣を崩されました。あと一息まで追い詰めましたが果たせなかった。
真田の兵は日本一、古今無双の働きなり。
勇猛で知られる薩摩の島津が言ってくれました。
それが、真田幸村様の名前を歴史に残しました。
子孫の私の名誉でも有ります。
豊臣家は、滅びました。
秀頼は、父親の名前を汚す最期でした。
一度も戦をしないで生涯を終えました。
家康は、こうして日本を統一しました。