アルプススタンドのはしの方 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「アルプススタンドのはしの方」に座る二人の女の子と一人の男の子。少し離れた位置に立つメガネの女の子。

この4人を正面から捉えたロングショットにメインタイトルが入った瞬間ちょっとゾクゾクし、こういう映画の興奮は久しぶりだと思ったのだが、その後が続かない。

 

基本的に彼らの会話をゆっくり移動する長回しで捉え、ある感情の瞬間や動きが変化する瞬間で、カットを割り、アップや切り返しのロングにつなげる。これがほぼこの映画の基本戦略なのだが、まず長回しの移動に意味がない。イメージだけの移動でしかない、時間稼ぎの移動でしかない。

そして長回しがちょっと持たないかなくらいのレベルでカットが割れる。そのカットを割る手つきがいかにも官僚的で、この感情を、この表情をアップで観たい、あるいは物語のこの瞬間を大切にしたい、という作家的、あるいは職人的な意思を感じない。ここでカットを割ればつながる、くらいのレベルでしかない。しかも時につながっていない。

 

そもそも「アルプススタンドのはしの方」だけで映画を成立させよ、とは誰も言っておらず、方法論だけが先行し、だから登場人物たちは光がピカピカ当たった屋外にさらされ、試合の状況を説明したり、自分の感情や主張(「頑張った人は報われる」)をただ説明するだけだ。

 

むしろ「アルプススタンドの」中、緑に向かって開かれた半室内である通路に観るべきシーンが多いのは、その証左であって、光に対する意識のない絵作りはひたすら退屈で、時折、彼、彼女に風があたりその髪を揺らしたりするものの、それが特権的な位置を占めることはなく、このような貧しい画面の中で、彼らは言葉で表現するに足る限定的、断定的な感情を示すにとどまり、人間的な、複雑な、言語化できない何かを示すことはない。

 

てか、なんで試合シーンを見せないの?

 

女の子も男の子もクライマックスでやたら試合について説明してくれるのだが、試合シーン見せたほうが早くないですか?その方が盛り上がんないすか?

 

彼らは状況を説明するために「アルプススタンドのはしの方」にいるわけではない。自分の感情やテーマを説明するためにいるわけでもない。

彼らが「アルプススタンドのはしの方」にいなければならないのは、作者たちの単なるエゴによる。つまらぬ。