ジョン・ ウィック:パラベラム | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

全世界の殺し屋を束ねる組織があって、その中には、ローレンス・フィッシュバーン率いるニューヨーク・浮浪者グループ、アンジェリカ・ヒューストン率いるロシア・バレエ団グループ、特に特徴のないカサブランカ・グループらがおり、その頂点に砂漠の民みたいな変な人がいる。

 

アクションを見せるだけの映画なんだし、そんなもんどうだってよかろう、早くアクションを見せてくれと、いつもなら思うはずだが、どうもこの映画については、この映画が寄って立つ組織図というか人物相関図みたいなものをつい描きたくなる。荒唐無稽な組織やしきたりや謎のコインやら、そのいちいちにワクワクしてしまう。

 

例えばファンタジー世界の地図や、RPGの地図やらにワクワクするのは、その世界を俯瞰的に眺めたい、どこか第三者的にその世界を見つめたいという想いの現れに違いない。つまり、物語に没入するというよりは、客観的な視点で物語を見つめること。

「ジョン・ウィック」シリーズの前二作がそうだったかは最早記憶にないのだが、本作もまた、そのような俯瞰的な視点、客観的な視点からアクションを見つめさせる何かを持っている。

 

例えば、ニューヨーク公共図書館でのアクション。あまりに馬鹿でかい敵の登場と、やけに本にこだわったアクションはまだ序の口だったが、続くナイフ投げのシーンで大笑いした。

ガラスケースを次々に壊しては、陳列されたナイフをつかみ出し相手に投げるのだが、そのうちに果たしてこのナイフ投げは敵を倒すためなのか、ガラスを割ることが目的なのかがよくわからなくなっていく。

 

本来の目的を離れ、アクションの虚構性を暴くようなドライな視点。

「燃えよドラゴン」をやたらゴージャスにしたような、ガラスと鏡の空間でのアクションでもそうだ。ガラスケースにぶつけられては壊し、ぶつけられては壊しの連続に、キアヌ・リーブスはもしかしたらこのガラスケース壊しを敵と共に楽しんでるんじゃないのかと思わせる。

 

アクションはやりようによってはコメディになる、「ショーン・コネリーがやれば活劇になり、ボッブ・ホープがやれば喜劇になる」というのは小林信彦の言葉だが、それはアクションにギャグを潜ませるということであり、また、現実世界にありえない荒唐無稽なアクションを、冷静に、客観的に、メタ的に見つめることから起こる笑いであろう。

 

しかしキートンからジャッキー・チェンに至るアクション=笑いの系譜が実証するのは、笑わせるために最も重要なことはアクションであって、笑いではないということだ。だから彼らは笑わない。

笑う人、例えばディーン・マーティンのにやけた顔が全編を覆うスパイ・コメディの弛緩ぶりを見よ。

アクションありき。だからこそ、それをメタ的に見つめた笑いが起こりうるのだ。

 

本作のアクションはだからこそ素晴らしい。

少し前のハリウッドのアクション映画はやたらカットを割り、アップショット主体、何が何やらわからぬことが多かったのだが、少しその潮流が変わったらしく、本作も長めの1ショット、アップではなく寄ってもウエストショットくらいにとどめ、しっかり何をやってるかがわかる。その中で、リアルな体技を見せてくれる。素晴らしい。特にオートバイでのカーチェイスには痺れた。

 

カサブランカでの銃撃戦もいい。

常にキアヌかハル・ベリーの位置に視点を固定し、撃つ、撃たれる関係をちゃんと示しながら、二人は移動し続ける。ちょっとゲームっぽくはあるのだが、この手の銃撃戦は「ハードコア」以来か、久々に見た気がする。胸がすく。

 

馬を使ったアクション、謎に防御力の高いボディアーマー、つるっぱげ率の高さ、犬に興奮するハル・ベリーと、ギャグすれすれのアイデアも豊富だ。

笑い、興奮し、そしてラスト、キアヌのアップショットで駄目押しの大笑い。

え〜まだ続くのかよ〜、と。

 

そう言えば、この映画、何かに似てるとずっと考えていたのだが、そっか、喜八だ。「殺人狂時代」だ。